文鳥姫

 その小鳥はかつて、とあるアジアの小さな国のお姫様でした。しかしその国は戦に負けたために滅んでしまい、お姫様は敵の悪い魔女に鳥にされてしまったのです。
 鳥になったお姫様はあてどなく彷徨いました。そして大きな鳥に襲われ、怪我をしているところを美しい青年に拾われました。青年は名をシンと言いました。

 シンがお姫様を助けて一週間。お姫様の傷はすっかり癒えていました。
「さ、きみの怪我はもう治ったんだからお家にお帰り。きっと家族も待っているだろう」
 爽やかな秋の風が吹く日に、シンはお姫様を野原へ帰そうとしました。けれどお姫様はすっかりシンの事が好きになってしまい、何度シンがお姫様の事を外へ連れて行っても、シンのそばを離れようとはしませんでした。
「人懐っこい文鳥だな。誰かに飼われていたのかもしれないなぁ」
 シンは少し不思議そうに、肩にちょこんと止まる小鳥を見つめました。

 お姫様はシンにターシャという名前をつけてもらいました。

 ターシャは宝石で身を飾る代わりにグレーの羽をいつもきれいに繕いました。

 ある日ターシャが窓辺でまどろんでいると、そこに一羽の文鳥がやってきました。
「やあ、オレはナンタっていうんだ。きみは?」
「あたしはターシャよ」
 ターシャは昼寝の邪魔をされたせいか、めんどくさそうに答えました。けれどナンタはそんなことは意に介さないようでした。
「ターシャはここん家に住んでるの?」
「そうよ」
 ふーん、とナンタは部屋の中を眺めました。そして急にターシャに向き直って
「ねぇ、あっちにきれいな泉があるんだけど、一緒に行かないかい?」
と言いました。
「行かないわ。だってもうすぐ日が落ちそうだもの」
 ターシャはそっけなく言って、背中の羽毛にくちばしを突っ込みました。
「うーん、じゃあ次はもう少し早い時間に誘うよ。じゃあね」
 そう言うとナンタは飛び立ちました。
 変な文鳥、とターシャは思いました。あたしは元々人間なんだから、文鳥となんか付き合わないわ。

 明くる日ターシャが窓辺で羽繕いをしているとナンタが飛んで来ました。
「こんにちはターシャ。今日もきれいな羽だね」
「あら、ありがと」
 ターシャは羽を広げ日に透かしてみせました。そして、ちょっと眩しそうに目を細めました。
「ねえ、昨日話した泉に行って水浴びしようよ」
「そうねぇ…」
 ターシャは首を傾げてみました。でも本当は水浴びをしたいと思っていたのです。
「いいわよ。行きましょ」
「そうこなくちゃ。じゃ、行こう。こっちだよ」
 ナンタはそう言うと泉を目指して飛び立ちました。ターシャも後を追いました。

 こんもりとした木々を抜けると小さな泉が現れました。ナンタはターシャに合図して、泉が見渡せる木の枝に並んで止まりました。

 陽の光が降り注ぐ静かな水面にあめんぼうたちが弧を描いていました。岸辺では野うさぎの親子がのんびりと毛繕いをし、鳥達は赤い木の実をついばんでいます。ターシャはすぐにこの場所が好きになりました。
「ここの水はほんとうにきれいなんだ」
 ナンタは少し得意気に言いました。
「下に降りて水浴びをしようよ」

 ターシャは久しぶりに水浴びを楽しみました。そしてブルブルと体を震わせて水を切り、丁寧に羽繕いを始めました。ナンタも時々ターシャの方を見ながら羽繕いをしました。ナンタはターシャの事を他のどの文鳥よりもきれいだと思いました。

 二人はお腹いっぱい赤い実を食べました。そして木の枝に止まってのんびりしながら、羽毛をふんわりとふくらませました。ターシャが「こんなに素敵な所なら、もっと早く来ればよかったわ」と言うとナンタは少し照れくさそうにしながら立ち上がりました。

 ナンタはターシャのためにとっておきの歌と踊りを始めました。

 愛するターシャ、ぼくのお嫁さんになっておくれ……。

 ターシャは少し悲しそうにナンタを見つめ、そして目を伏せました。
「あたしはナンタのお嫁さんにはなれないわ」
「どうして?」
「だって、あたしは本当は文鳥じゃないんだもの」
 ナンタはきょとんとして首を傾げました。
「あたしは本当は人間なのよ」
「でも今は文鳥だろう?だったら大丈夫だよ」
 ターシャはナンタの無神経さに腹が立ちました。あたしがこんなに悩んでいるのに、なんてことを言うのかしら。
「あたしもう帰るわ」
 ターシャはナンタに一瞥もくれずに飛び立ちました。
「あっ、ターシャ!」
 ナンタが追いかける暇もなく、ターシャの姿はすぐに見えなくなってしまいました。

 ***

 翌日もその翌日もナンタはターシャの所へやって来ました。
 二〜三日はむくれていたターシャですが「少なくとも、ナンタはあたしの言う事を笑ったりしなかったわ」と機嫌を直しました。

 二人はまた連れ立って泉へ行きました。そして水浴びをした後いつものように丁寧に羽繕いをし、木の枝にのんびりと座りました。
「ねえターシャ、きみはあのシンって人間が好きなのかい?」
「な…何よ急に」
 ナンタが急に真面目な顔で聞いたので、ターシャはどぎまぎしました。
「文鳥が人間を好きになったって、どうにもならないよ。言葉だって通じないし、あの人間だってきみのことなんて相手にしないさ」
 ターシャは黙ってうつむきました。

 二人の間を風がざあっと吹き抜けました。

「あたしはほんとうは人間なんだから……」
 ターシャは悲しい気持ちでいっぱいになりました。
「ごめんよターシャ。でもぼくはターシャの事が好きなんだ。……今日はもう帰るよ。じゃあね」
 ナンタは静かに羽を広げ、そしてターシャの元を離れました。

 このことがあってから、ふたりは「人間」の話には触れないようにしました。ナンタはターシャが悲しむ顔を見たくありませんでしたし、ターシャもまた同じ気持ちでした。
 ナンタの陽気な歌と踊りはターシャを楽しませてくれましたが、求愛の歌を聴くと心がちくっと痛みました。

 あたしがナンタの事を好きだったら良かったのにとターシャは思いましたが、こればかりは自分でもどうにもなりませんでした。

 ***

 それから数日後のことです。少し体が重いような気がして、ターシャは巣箱の中で休んでいました。ナンタが誘いに来ましたがそれも断り、うとうとしながら羽をふくらませていました。

 翌朝、ターシャは巣箱の中で小さな卵を産みました。その卵はきらきらと虹色に輝いていました。
 あたしが卵を産むなんてまるで本当に鳥みたいだわ、とターシャは思いました。

 卵をどうしようかと少しの間迷いましたが、結局ターシャは卵を温めることにしました。
 一人で卵を温めるのは思ったより大変でした。けれどもターシャはがんばって温め続けました。
 一度、卵に気付いたシンがそれを取り上げようとしましたが、ターシャは卵を持って行かないようにとその手をつつきました。シンは無理に卵を取ろうとせず、それからはあまり巣箱の中をのぞかないようにそっとしておきました。

 ナンタは一日に一度シンがいない時にやってきて、小さく開いた窓の外で歌を歌いました。けれど決して部屋の中には入ってきませんでした。

 かわいいターシャ、外へ出ておいでよ……

 ターシャはナンタの歌を聴くと巣箱から顔をちょこんと出しました。そしてナンタの顔を見ると小さく頷いてまた首を引っ込めました。
 ナンタはしばらく心配そうに巣箱を見つめ、「ターシャ、また明日来るからね」と言って帰って行きました。

 そんな繰り返しが7日間続いたある朝のことです。

 コツコツ。

 静かな部屋の中に、世界に向けて小さくノックしているような音が響きました。
 ターシャはすぐには何が起こっているか分かりませんでしたが、はっと気が付いて体を卵の上からずらしました。

 コツコツ。

 卵にうっすらとヒビが入りました。ターシャもその音に応えるように、そっと卵をつつきました。

 コツコツ。
 コツコツ。

 小さな音をたてながら卵のヒビは少しずつ大きくなりました。ターシャは卵の中を早く見たくてたまりませんでしたが、はやる心を抑えながら慎重に卵をつつきました。

 コツコツ。
 コツコツ。

 チリチリと音をたてながら、とうとう卵の殻が割れました。

 生まれたのは、夢でした。
 遠い昔から今まで、あらゆる人や動物たちが見ていた夢でした。

 ターシャは虹色の光につつまれながら、うっとりと目を細めました。目の前を流れて行く夢はどれも素敵で幸せなものばかりでした。どうしてこんな事が起こっているのか考えことさえ忘れ、ターシャは夢に見入りました。

 ある夢を見つけてターシャははっとしました。夢の中では人間に戻ったターシャがシンと一緒に泉のほとりにいました。二人は楽しそうに笑い合っていました。その夢を見たのはほんの一瞬でしたが、ターシャの心にひっかかって離れませんでした。
 ターシャは小さな涙を一粒こぼし、静かに目を閉じました。

 ***

 翌朝、シンは仕事へ行く前に家のそばの大きな木の下に穴を掘りました。
「かわいそうに」
 シンはターシャの小さな体をなでました。
「ごらん、きみの友達がお別れに来ているよ」
 そう言ってシンは木の上を見上げました。枝にはナンタがいました。ナンタは何も言わずにじっとターシャを見ていました。
 シンはターシャの身をきれいな布にくるみ、穴の中に横たえて土をかけました。
「ターシャ、ゆっくりお休み」

 シンがいなくなった後にナンタは木の枝から降りてきました。しばらくじっとしてから少し首を傾げ、くちばしでやわらかな地面をつつきました。

 ナンタは徐々に拍子をとりはじめ、得意の踊りを踊りながら歌いました。天にも届きそうな透き通った歌声でした。そしてひとしきり歌い終わると、羽をぶるっとふるわせてその場を飛び去りました。

 愛するターシャ、ぼくのお嫁さんになっておくれ……。

 ナンタが愛の歌を歌ったのは一生のうちでこれが最後でした。


(『文鳥まつり』収録)

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