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誰かを信じぬくこと。~辻村深月著『青空と逃げる』を読んで~

 また、辻村深月らしい小説を読めた。
 読了後、そう思って息を吐いた。

 物語は、高知は四万十川の描写からはじまる。
 小船に乗る少年——本条力、この小説の主人公のひとりだ——は、初めて経験するエビ漁に夢中だ。遼という青年に教わりながら、食べていくための漁に挑戦している。その描写から、どうやら力は田舎や自然に慣れていないことがわかる。
 テナガエビをとり、母の働く食堂で素揚げにしてもらおうと楽しみに歩く力。しかしなぜか髪をふり乱し駆け寄ってくる母の早苗。様子がおかしい。嫌な予感は当たってしまい、母と子のささやかな暮らしは逃避行へと変わる。

 なぜ、親子は逃げなければならないのか?
 いったい、過去に何があったのか?
 たくさんの疑問符は読み進めるうちに少しずつ解けていく。

 冒頭で私が「辻村深月『らしい』」といったのは、ふたつの意味がある。  ひとつは、逃避行が必ずしもつらいばかりではないということだ。
 場面は大きく動く。兵庫にある小さな島。大分の温泉街。そして仙台。どの地でも、ふたりを助け、力になってくれるひとたちが必ず現れる。
 実際はこうはいかないだろう。コミュニティが小さければ小さいほど、住民は排他的になる傾向があるだろう。逆に都市が大きければ大きいほど、ひとは他人に無関心になる。現実はそういうものだ。
 けれど、物語のなかではそうではない。ふたりをしつこく詮索したり、傷つけたりするひとは、土地のひとのなかにはほとんどいない。これは、著者である辻村さんの祈りなのだと思う。物語に託した祈りだ。すべてのひとびとが、悪いひとばかりではないということ。信じて、助けを求めてほしいということ。
 

 では、ふたつめは何か。物語の核心に触れてしまうため、ここで詳しく書くことは避けるが、大切な誰かを信じられなくなったとき、どうすればいいのかという問題に向き合い、真実を探すこと、その姿勢だと思う。疑心暗鬼になることは誰にだってある。それが、思わぬ真実と結びついたとき、まったくの思い違いだとわかったら? まどろっこしい書き方になってしまって申し訳ないが、この物語は、心の底で誰かを信じ続けることの素晴らしさを書いているのだと思う。
 

 ふたつの希望。実に辻村深月らしいではないか。
 個人的な話をさせていただくと、読み始めるときハードな設定にちょっと怯えていたのだけれど、読後感のあたたかさと涙は保証します。是非!


 




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