降り積もる雪を見つめるように
完全にわたくし事ですが、本日Instagramを再開しました。恥
(もちろんわたしはマイクロインフルサーなんて呼ばれる者でも、ましてや女優やモデルといったセレブリティーでもない!だからあえて報告することでもない、のだが。)
ベッドで寝転がりながら読んでいた本の中でたまらなく好きなフレーズがあったので、その瞬間、どうしても不特定多数の誰かにシェアしたくなったのだ。
今年の三が日、秋田で降り積もる雪を眺めながら今年は「謙虚に、愚直にいくぞ」と誓いの投稿をしてから、パタリと更新の手が止まってしまった。
理由はきっと単純で、「飽きた」からであり、「面倒くさかった」からである。わたしは熱しやすく冷めやすい。
ひさしぶりに投稿してみると、やっぱりこれはこれでいいもんだ、なんて感じた自分に驚いた。自分の心が揺れた一瞬を切り取り、文章とともにストックしておく――そんな行為は、やっぱりそれはそれで価値のあることなんだと思う。
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わたしがInstagramをふと投稿したのには、「じぶんの生活を取り戻そう」というささやかな意志があった。
ここ一ヶ月ほど、多忙のビッグウェーブが襲来していて、まるで心に余裕のない日々だった。いっつもカリカリカリカリして、嫌な、可愛くない女だった。
タスクに追われ、気づいたら残業が許されない22時になって慌てて退社して、空腹と睡魔を天秤にかけながら家路につく。家のドアを開けてソファに腰を下ろすと訳も分からず涙がだらだらと溢れ出てくる・・・そんな数日が続いていた(大げさなようで本当の話)。
なにか悲しいことがあったわけではない、けれど涙は止まらない。感情よりも体が先に反応するのねー人間の体って優秀、と妙に冷静に客観視したりもしていたから、まだわたし大丈夫、なんて考えていた。
好きだと思う仕事をしていても、その中で「やりたくないのにやらなきゃいけないこと」に心が支配されると、どんどん自分が自分じゃないみたいになっていく。
心に余白がないもんだから、玄関をでたときにふわっと感じる季節の移り目にも、他の誰かが生きる今日にも、何なら日々の衣食住にさえも、まーるで興味がなくなっていく。
すると目に映る世界はどんどんどんどん色を失って、ひとりであることを強烈に自覚させられる。
そしてどうにかご機嫌を取り戻そうとする過程で、人生が途方もないものに思えてしまうときに必要なのは、「瞬間を意識すること」なのかもしれない。そんなことを思った。
ダラダラと切れ目ない時間をやり過ごしてはいけない。本来であれば心ときめくものがそこにあっても見過ごしてしまう、そんなのは嫌なのだ。
人生という名を身に纏った時間はひと続きだけれど、そこには一秒一秒降り積もる雪のように、細やかな粒が存在している。
あっ、江國香織さんの言葉の中でも特にだいすきなものに、こんな問いかけがありました。
瞬間の集積が時間であり、時間の集積が人生であるならば、私はやっぱり瞬間を信じたい。safeでもsustainableでもない人生で、長期展望にどんな意味があるのでしょうか。
瞬間に目を向けられない日々なんて、生きている意味がないのだ。
(大げさなようで、本当の気持ち。)
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今週から、#週1note再始動しています!予期せず、初っ端からわりと鬱々とした投稿になってしまって、あちゃー!という気持ち。いつもはもっとライトで元気なことを書いています。笑
今回もたくさん読めるの楽しみだな~~~
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