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夢想家だったのかも

たぶんね、自分の理想郷があって、私にはその理想郷がきっと高すぎたんだなと思った。

「私の存在、私の発言で傷つく人がいないようにしたい」
を常に無意識に考えて生きていて、今回はそれが行きすぎていたんだと思った。
それが行き過ぎてしまったせいで、先生を困らせたし、怖がらせてしまった。結局わたしは、本当に困っているかどうかがわからないけど私の憶測で、私がイヤだったからたぶんイヤと思う生徒もいるだろうということだけを考えて、”生徒の為”を思った発言が、結局目の前の先生を困らせてしまって、さらにもしかしたら傷つけてしまったかもなと思う。
(※前日の投稿内容の出来事について、今日は別の考え方に気づいたので書いています)

これとは内容は全然関係ないディベートをYouTubeで観てたとき思った。差別を完全になくす社会主義的で夢想家的な考えをしている人の考えに私は近かったんだと思った。
私にはありえないくらいの理想郷があって、それをせめて自分の行った先(≒いまいる場所)ではどうにか叶えようとしてしまっているとんでもない夢想家なのかもなと気づいた。

そんな、誰も傷つかない世界なんてあるわけないのにさ。

他人が何に傷つくかなんてことを全てわかりきることなんてできないんだから、どう頑張ってどう配慮したって、どうしたって傷ついてしまう人は出てくる。
もし100人に私が思う同じ”やさしい言葉”をかけたって、100人全員がいいと思わなくて、裏側の言葉に傷つく人はいるだろうし、かといって例え相手によって言うことを変えて言葉を選んで話したにしても、どうしたって相手が一切傷つかないコミュニケーションなんて絶対にすることはできないんだよ。それこそ、捉え方こそが相手次第なんだもんね。
それを、さもそうじゃないかのように過ごして、誰もイヤな思いをする人がいない空間にしたいだなんて考えていた私は、ただの理想主義者だった。

もちろん今後も、なるべく誰も傷つけないように生きていきたいと思うことは変わらないだろうけど、それが100%は無理ってことを分かった上で生きていかないと、また今回みたいなことを起こしてしまうと思うんだ。
そして今日みたいに私が反省しないで、昨日までの様に私が理想を追い求めていったら、きっと、きっと、何かの?過激派に、なる気がする。そうなったっておかしくないくらいの思想をわたしは持ってる気がしたんだ。


“世界ってまぁそんなもんだよね” “仕方ないよね”とほとんどの物事を淡々と片付けてしまう人にはなりたくないけど、
ある程度は見過ごすようになることも、自分が生きやすくなるには必要なことだと思う。
その、「ある程度」ってやつも難しいんだけどね

自分が夢想家だと気づいていなかった。
今日はそれに気づけただけでも良い日だった。

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