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ミニスカートに希望と夢と思いを寄せて

1969年黛ジュンがミニスカートで歌っていた『雲に乗りたい』は、人間の単純な憧れかもしれない。謙也は、飛行機で雲海の上を飛んでいると、そのまま雲にダイブしたくなるほどだ。TBS系ドラマ『花嫁人形は眠らない』の永山洋子がカバーして主題歌に起用された曲だ。

🎶雲にのりたい やわらかな雲に
望みが風のように 消えたから
私の胸につのる淋しさは
愛するあなたにもわからない
どうして皆恋しているんでしょう🎶
作曲:鈴木邦彦

また、雲と言えば、黒柳徹子の『魔法のじゅうたん』は、1961年頃のNHKの子供番組があった。アラビア風の衣装を着けた黒柳徹子と、ターバンをかぶってガウンを羽織った小学生2人が魔法のじゅうたんに乗ると言うものだが、10歳だった謙也は羨ましかった。まだ、本物の魔法のじゅうたんが飛んだことはない。いつか、雲の上に乗りたい。『あの世にいつたら、いくらでも乗れるって』と友達に言われ大笑いしたけれど。

謙也は、いつも使っているWikipediaで黛ジュンについての記事を調べた。黛ジュンは、『1967年に石原プロモーションへ移籍する。作曲家の黛敏郎のファンだったことと、パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で一気に注目を集める。グループサウンズのブームと同時代に活躍したこととサウンドから、中村晃子らとともに一人GSとも呼ばれた。』

最大のヒット曲は、1968年の「天使の誘惑」がレコード売上500万枚を記録したと言うから、当時の景気の良さを伺える。1968年と言えば、テレビでアニメ「巨人の星」が放映開始されたり、「少年ジャンプ」が創刊されたり、フジテレビの歌謡番組『夜のヒットスタジオ』が放送開始され、初代司会に前田武彦と芳村真理が担当した。ワイドショーが始まって、歌番組が多かった時期だ。

1965年からベトナム戦争は本格的に拡大し、1968年には泥沼化していた。1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦したと言う負のアメリカ史で終わった。「戦争の無意味さを世界中に知らしめた結果であった」と謙也は思った。

そんな悲惨な中でも芸能界や歌謡界は、明るく逞しく生き延びていた。ところで、黛ジュンが履いていたミニスカートの流行もツイッギーが1967年10月に来日し、日本にミニスカートを流行させたのがきっかけであった。芸能人とファッション・トレンドが連動していた頃の話だ。ミニスカートの丈の定義はないが、膝丈より短いが定義のようだ。

『ストリートファッションの影響力が強くなった1959年にロンドンのストリート・デザイナーマリー・クヮントが若者向けに売り出しミニスカートが大ヒットする。本格的な世界的な流行の火付け役は、フランスのファッションデザイナー、アンドレ・クレージュによる1965年1月の発表であった。彼はその前年の1964年8月にもミニスカートを発表している。これに続き、その他のデザイナーたちもミニスカートを発表し始めるようになった。この頃から、イギリス出身のモデルツイッギーが着用してブームを呼び起こし、これによりミニスカートは世界中に広がった。ツイッギーは1967年10月に来日し、日本にもツイッギー旋風を起こしてミニスカートを流行させた。』とあったWikipediaの記事に納得した。ちょうど、黛ジュンがデビューした年だ。

「コロナで疲弊した全業界だが、ここは起爆剤になれるのは、芸能界とファッション界しかない」と謙也は思った。「きっと、ストレッチのように縮こまった後に大きく体を広げるはずだ」と謙也は期待している。それは、無名な若い世代だろう。ジジババがのさばっている時代は終わる。夢と希望に満ちた未来のように思えて仕方ない。新旧交代の時期だ。「ミニスカートのように革命が起こる」


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