見出し画像

フルサイズ機ならM42とかL39の旧レンズでいーじゃん!という結論

SONYα7というもはや過去のカメラとなってしまったフルサイズ機のボディを中古で購入して、いろいろと考えました。今までフィルム撮り用で旧型ライカタイプのレンジファインダー機や、スクリューマウントの絞り込み測光オンリーの一眼レフ機用に集めてきたL39、M42マウントのレンズをいろいろつけて撮ってみました。その結論は、当り前に写るから、新たにレンズを買わなくてもいーじゃん、ということになりました。

画像1

同時に、それまでメインで使っていたマイクロフォーサーズ機、レンズ、ストロボなど一式をヤフオクで売り飛ばしました。使わない機材をごちゃごちゃ持っていても仕方がないからです。スッキリしました。そして退路を断ってから、私なりのフルサイズ機の使い方を考えていったのであります。こんな感じでも結構使えます。日常的な取材などは、旧レンズとフルサイズ機でほぼ事足ります。高速連写、高速ピント合わせ、瞳追従フォーカスなどなどの素晴らしい機能は、私には不要なのであります。

画像2

上の写真のように、小さなレンズが揃います。軽くて小さく持ち歩きの楽なL39マウントのレンズです。28mmから45mmとばらばらの焦点距離ですが、結構使えます。ズーム機能は近寄ったり離れたりすればいいのですから。ポケットに放りこんでおけばいいチビッ子たちです。

画像3

望遠は100mmとか105mmです。右のコンパクトなキヤノンは売ってしまいましたし、左のコムラー105mmは現在修理中です。

画像4

こちらはM42マウントのレンズ一式です。一眼レフ用ですが、レンジ機のL39レンズより、ひとまわり大きくなります。レンズを通った光をファインダーで見るレフレックス方式のカメラに対応していた時代のレンズです。カメラボディ内にミラーを置かねばならないので、フランジバックは長くなります。自動絞り機構もレンズを大きくする要素でした。また高級カメラが一気に大衆化した時代なので、レンズのバリエーションがL39よりはるかに多く、安価になりました。M42のスクリューマウントは長い歴史があるので、選べるレンズも日本、ドイツ(東西)、ロシアなどなど多いのです。

画像5

広角28mmと35mm。

画像6

標準は銘玉、テッサー。

画像7

望遠はペンタコン100mmという感じです。これにズームが付きます。

画像8

画像9

F4.8と暗いサン光機のズームで、望遠側のみをカバーしています。85~210mmです。

画像10

これに焦点距離を2倍に延ばすコムラーテレモアがあります。こんな感じでレンズを揃えています。これも時と共に変化する自分の好みに合わせて、適宜入れ替わりしていくことでしょうが・・・。

画像11

そうするとカメラボディをどうう考えるか、というテーマに突き当たります。現在のデジカメは、カメラボディとフィルムの両方の機能を持っています。特にフィルム的な機能についてはまことに幅広い、表現的な能力がけた違いなのです。ISO感度のオート化、色彩の再現性、いろいろなカラーモード、自動露出のクオリティという部分は、今のデジカメのボディが持つ機能です。私は、まだこういった機能を十分に使いこなしているわけではありません。自分の表現に合った機能を、部分的に使っているに過ぎないのです。何ジェネレーションか前のデジカメであっても、私がその機能を全部覚えられるわけがないのです。またそんな機能をいろいろと使うような表現をしていない、ということもありますけれども。

これからは、カメラ機材やレンズ選びにかける時間やマンパワーをできるだけ最低限にして、よりよい写真が撮れるよう改めて学びの時間を取るようにする予定です。表現に携わる者として、視覚的、芸術的な素養を蓄積していくことです。写真表現史の学びは必修です。ダゲール、キャメロン夫人、ウジェーヌ・アッジェ、エド・ファン・デル・エルスケン、ロバート・フランク、ウイリアム・クライン、福原信三、細江英公、立木義浩、篠山紀信、デヴィッド・ハミルトン、サム・ハスキンス、アンセル・アダムス、荒木、森山、上田義彦などの写真表現に携わった先人たちが何を考え、それをどう表現しようとしたのか。

また遠近法以降の、ルネサンス以降の絵画表現(=視覚表現)について、さらに遠近法以前の絵画表現などなどなどなど、知っておくべき分野はどんどん果てしなく拡がっていく・・・という底知れぬ泥沼が待ち構えているのです。

写真という表現の最大の不幸は、人間の脳の機能をはるかに超えたカメラが機械的に画像を記録し過ぎてしまう、ということ。誰であっても関係なく、その場やその瞬間にいさえすれば、素晴らしい写真が撮れてしまうということです。単純に言えば、カメラのテクノロジーが素晴らしすぎるのです。そしてメカニック的に生まれたなんということのない画像に幻惑されただけの、カメラマン、写真家、映像作家などを自称する人々がやたらと増えてしまうのです。カメラを手にする人々は、この恐ろしい、残酷な現実を片時も忘れてはなりません。それは私への大いなる自戒をも含めて、あえて言葉にしているのですから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?