【映画】「サウルの息子」感想・レビュー・解説

サウルの行動原理は、僕には理解できなかった。

基本的に僕は、人に死に対して淡白であるという自覚がある。人が死んで哀しいと思ったことが一度もないし、死んだらただの“モノ”だと思っている。死後の世界だとか生まれ変わりだとかそういう類のことはまったく信じていない。
だから、死んだ人間を埋葬する、ということに対して、僕は意味を見出せない。

生者にとっての儀式なのだ、ということは理解しているつもりだ。死者を弔うことは、死者のための行為なのではなく、生者のための行為なのだと。だから、サウルが個人の考えから死者を埋葬したいと考えることは理解する。個々人の考え方の違いで、どちらが正しいというわけではない。

『死者のために生者を犠牲にするつもりか』

しかしサウルは、死者を埋葬するために、周囲の人間に迷惑を掛ける。サウルが一人でやれるなら何も問題はない。あるいは周囲の人間が、自らの気持ちからサウルを手伝おうとするならそれも構わない。しかし、サウルの身勝手な行動は、サウルの周囲の人間を振り回す。

それを、“愛”や“正義”と呼ぶことは出来るのだろうか?
僕には、形を変えた暴力のようにしか思えなかった。

『ここは生者のための場所だ』

しかし同時に、僕にはこんな思いも去来した。サウルは、今自分がいる場所を、「生者のための場所」とは捉えていなかったのではないか?ここにいる人間は、生きながらにして、同時に、全員が死者である。もしもサウルがそのような価値観の中で生きていたとするならば、サウルの行動原理も理解できるような気がする。

サウルは、人を殺す手伝いをしていたのだし、自分が死ぬことも理解していた。そこには、早いか遅いかの差しかなかった。サウルの目には、「死者のための場所」と映っていたのかもしれない。

しかし、完全にそうとも言い切れない。
サウルが死者を埋葬するのに奔走するのと同時に、サウルの周囲ではある計画が進行していた。それは、彼らの死を、もしかしたら“やってこない未来”に変えることが出来るかもしれない計画だった。サウルも、その計画の準備に手を貸していた。サウルはその計画の成功を、まるで信じていなかったのだろうか?あるいは、そんなことよりも死者の埋葬が重要だったのだろうか?サウルがどう考えていたのかは分からない。しかし僕は、サウルが物事をどう捉えていようと、サウルの行動は一種の暴力でしかなかった、という考えを捨てるつもりはない。

この映画のラストシーンは、僕には理解できなかった。しかし、無理に解釈しようとすれば、死者の埋葬を諦めたことで、サウルの命が奪われた、ということを暗示したかったのかもしれない。もしそうであれば、サウルは、自らが生者であることの証明のために、死者の埋葬に奔走していたのかもしれない。死者を埋葬出来るのは、生者だけだ。この狂った場所で、生者であることを自らに証し続けるために、サウルは死者を埋葬しようとしたのかもしれない。

サウルの真意は、どこにあっただろうか?


“ゾンダーコマンド”という言葉を、初めて知った。
ユダヤ人は、強制収容所からトラックでここに運び込まれる。服を脱がされ、“消毒室”に押し込まれ、死体となって床に転がる彼ら。彼らの服を脱がせ、“消毒室”に押し込み、死体を処理するのは、同じくユダヤ人であるゾンダーコマンドたちだ。彼らは数ヶ月働かされた後、他のユダヤ人と同じように抹殺される。
ゾンダーコマンドの一人であるサウルは、“消毒室”で生き残った少年に目を奪われる。医師によって殺され、解剖を受けることになったその少年を引き渡して欲しい。サウルは、同じくユダヤ人である医師に頼み込む。

サウルは、囚われ死を待つばかりのユダヤ人の中からラビ(ユダヤ教の聖職者)を探しだそうとする。その少年を正しく埋葬するためだ。同時に彼は、襲撃計画の一翼をも担う。反乱を起こすための準備が、水面下で進んでいるのだ。
サウルは、襲撃計画の仲間たちから文句を言われながらも、埋葬の形式を整えるための努力をし続ける。死が偏在し、死者はただ焼かれて灰になるだけのこの狂った場所で、サウルは、死者の埋葬を実現させようとする。

全体的に僕は、サウルの行動がまるで理解できなかった。もちろん、誰もが狂気に囚われてしまっている中で、「死者を埋葬したい」という、通常であればごく正常な行動を導くだけの理性が残っているという意味で、サウルだけがまともである、と考えることも出来る。僕は、多数派に流されてしまう集団の中で、多数派の流れに逆らってしまう人間が好きだし、そういう意味で僕はサウルに共感しても良かったはずだ、という思いもある。

それでも僕には、サウルは得体のしれない存在だった。

先ほども書いたが、僕の死というものに対する感覚が正常ではないからだろう、とは思う。あの空間で、生者を救うために奔走出来るのであれば、その強い意志を持った人物に僕は惹かれたかもしれない。しかし、死者の埋葬に奔走するサウルには、共感できなかった。

この映画は、説明がほとんどされない。ほぼ常に、サウルを後ろから追いかけるようなカメラアングルで映像が展開されていき、サウルの行動を忠実に追う形で映画が進んでいく。もう長いことゾンダーコマンドを務めているのだろう、サウルの行動は淀みがなく、それ故にそこに説明的な要素はない。サウルが何をしているのか、サウルが関わっている相手が誰なのか、そういうことがイマイチよく分からないまま映画が進んでいく。

これは、良し悪しがある。説明がされないので、状況把握が非常に難しいという側面はある。欧米人からしたら顔つきでユダヤ人とドイツ人を区別出来るのかもしれないが(日本人が日本人と中国人をおおよそ区別出来るように)、恐らくアジア人には難しいだろう。誰がどういう立場の人間なのかというのは、僕にはほとんど理解できなかった。

しかし一方で、臨場感はもの凄い。何をやっているのかは分からないが、スピード感は圧倒的だ。物語的には説明が少なくかなり理解し難いが、映像的には実に魅力的なものに仕上がっていると思う。

映像の話で言えば、もう一つ気になったことがある。この映画の中では、主人公以外のすべての背景がぼやけているシーンが結構ある。これは主に、ユダヤ人がまさに“消毒室”に連れ込まれようとしている場面や、その後死体が転がっている場面などに見られた。

物語とは関係ない部分でこの映像処理のことを考えれば、R-18のような指定を掛けられないように、という配慮があったかもしれない、と思った。物語の中では死体はありふれたものでしかないが(作中では、ドイツ兵が『“部品”を燃やせ』と叫んでいるシーンがある)、現代の観客にはなかなかショッキングな映像だろう。観客に配慮をした、という可能性はあると思った。

しかし僕は、別の解釈もした。それは、サウルがまさにそのようにして周囲の光景を見ている、という解釈だ。サウルはゾンダーコマンドであり、まさに同胞を殺す手助けをしているのである。それは慣れろと言われて慣れるようなものではないだろう。だからサウルは、意識的に周囲をちゃんと見ない、ぼやけた映像として捉えることで、自分の心を守っているのではないか。ショッキングなシーンでぼやけた映像処理がされるのは、そういうサウル自身の内面の表出なのではないか、という受け取り方もしました。

そして、もしそういう受け取り方をするとすれば、先ほど書いた「生者であることを証明するために死者を埋葬しようとする」という解釈を補強することが出来る。ゾンダーコマンドとして仕事に従事し続ける日々に身を置くことで、サウルは自分の心が死んでいくことを感じ取る。周囲を直視しないことで耐えているが、それも限界だ。だから、必死に死者を埋葬する自分を生み出すことで、自分を生者の側に留まらせようとしたのではないか。

先程も書いたが、ラストシーンは僕にはよく分からなかった。映画全体も、ちょっとどう受け取っていいのか分からなかった。映画を見て久しぶりに、理解し難いと感じた。

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