【映画】「残穢―住んではいけない部屋―」感想・レビュー・解説

小説家である主人公は、最近雑誌で、実録怪談をベースにした短編を発表している。読者からの投稿を元に、小説仕立てに仕上げるのだ。
すべての始まりとなるその手紙が主人公の元に渡ったのは、2012年5月のことだった。
都内の大学で建築デザインを学ぶ久保さん(仮)は、入学から二年間住み続けた学生寮を出て一人暮らしを始めることにした。
その部屋に、何かがいるような気がする、と彼女は語る。
時折隣の部屋から、畳の床を箒で掃くような音がする、と言う。その音は、彼女が隣の部屋に身体を向けていると消えるのだという。
最初は、ただそれだけの投稿だった。しかし続いて、こんな話が届く。怖くなって隣の部屋の引き戸を閉めきっていたが、音が聞こえた後で引き戸を開けてみると、着物の裾のようなものが見えたのだ、と。
箒で掃いているような音は、着物の裾が擦れて立つ音だったのではないか。主人公は久保さんのその見立てから、久保さんが何を想像しているのか理解できた。着物を着て帯を解いた女性が、首吊り自殺をして揺れている姿…。
そこで主人公はふと、あることを思い出す。以前にも、似たような話を読んだことがあったのだ。投稿された封書をひっくり返してみると、見つかった。箒で掃くような音、そして子供が何もない虚空を指して「ブランコ」と呟いたこと。
二つの話は、まったく同じマンションで起こっていた。かつての投稿が405号室、そして久保さんが202号室。
岡谷マンション。
久保さんは不動産会社に、自殺者の有無などを問い合わせる。しかし、過去にそういったことはなかったという。しかし、ひょんなことから久保さんは、かつての202号室の住民の消息を知ることとなる。さらに、お隣に引っ越してきた一家にも、良からぬことが起こっていることが分かってくる。
もしかしたら、岡谷マンション以前に、この場所で何かがあったのではないだろうか…。
というような話です。

全体的には、非常に抑えられた、現実に寄せた作りになっている映画だと思います。徒に観客を驚かすような演出はありません。登場人物たちに起こった様々な現象についてはともかく、彼らが丹念に掘り起こす、土地に根付いた過去の物語の連鎖は、世の中のどんな土地にあってもおかしくないようなものだと感じました。視覚的に恐怖を与える物語ではなく、「土地に根付いたこんな歴史の連鎖が、自分が住んでいるところにも存在するのではないか…」と思わせることで、観客自身の感覚の中から恐怖を沸き立たせようとする、そんな作品だと思いました。

僕の立場を明らかにしておきましょう。
僕は基本的には、幽霊や怪談の類は、信じていません。とはいえそれは、幽霊や怪談の「物語としての役割」まで否定するものではありません。

京極夏彦という、妖怪や怪異がまだ日常の中に存在するとナチュラルに信じられていた時代を描き出すのが巧い作家がいます。その京極夏彦の作品に、「巷説百物語」というシリーズがあります。このシリーズは僕に、妖怪というものの存在価値を改めさせてくれた作品でした。


「巷説百物語」シリーズでは、「問題解決屋」みたいな集団が出てきます。世の中のどこかで起こった、もうにっちもさっちもいかないトラブルを、奇策で解決するという集団です。
その集団が使うのが、妖怪なわけです。

その問題解決屋集団自身は、妖怪の類の存在を信じていません。しかし彼らは、妖怪という存在を巧みに使うことで、トラブルを解決していくのです。

ある問題が起こったとする。それはもう事情が入り組んでいて、交渉や金なんかではもう解決できないだろう、と思われているような案件だ。しかしそこに、「妖怪」を登場させる。その問題を引き起こした原因は、実は妖怪なんだよ。妖怪なんだから仕方ねぇじゃねぇか。まあこんな乱暴な解決策ではありませんが、基本的な発想はそういうことです。原因を解決したり、あるいは納得出来ないことを無理やり受け入れるのではなく、「妖怪の仕業だから仕方ないんだ」という理由を与えることで、八方すべてが丸く収まる。そういう解決の道筋を描いて実行するのが彼らの役割なわけです。

幽霊や怪談というのも元々はそういう機能を持っていたのだろうと思います。
例えば、近くに気の触れてしまった人がいたとする。現代では、それが医学的な問題であると証明できるものもあるでしょう。脳内の問題である、という説明が与えられるわけです。しかし昔はそんな説明は望んでも出てこなかった。原因が分からなかったわけです。であれば、自分にも起こるかもしれない。それは恐い。
だから、何か歴史を紐解いて、あるいは言いがかりをつけて、「気が触れたのは幽霊のせいだ」ということにする。それを周囲で共有する。そうすることで周りの人々は、「幽霊に祟られたのだ。自分は祟られるようなことをしていないのだから、気が触れるようなことにはならない」と安心していることが出来る。

幽霊や怪談というのは、基本的にこういう「納得のための装置」として利用されてきたはずです。そして、そういう怪異の存在を前提とすることで、生きている者に教訓を与え、子供の教育に利用し、コミュニティの団結を図ったのだろうと思います。そのうち、怪談というのが、ただの物語として消費されるようになり、現代では昔ほどそういう役割を維持できているとは思えませんが、僕自身は幽霊や怪談のそういう「納得のための装置」という役割まで否定するつもりはありません。幽霊や怪談には、存在しなければならない理由があり、だからこそ、それが現実のことであるのかを議論することにはさほど意味がない、と僕は考えてしまいます。


しかし、現実のことであるのかどうか、判断しなければならない事柄もあります。それが、怪談話に付き物の「怪奇現象」です。この映画でも、箒で掃くような音や、赤ん坊の鳴き声などが、怪奇現象として登場します。これらは「現象」であるので、きちんと調べることが出来るはずです。

まず、その現象が、自分以外の誰かにも認識出来るのか、という点が重要です。自分にしか認識出来ないのであれば、それは「物理的な現象」と認めることは難しいでしょう。恐らくそれは、脳内で起こっている現象です。幻聴、幻覚、なんでも構いませんが、そういう脳内での何らかの異常が原因でしょう。

自分以外の誰かにも認識出来る場合には、解釈の問題があります。例えば、箒を掃くような音がした場合、実際にどこかで箒を掃いているだけかもしれません。あるいは、壁の奥や天井裏などで何らかの現象が起こっている可能性もあります。以前見たテレビ番組では、ポルターガイスト現象が起こる家で物が動く原因が、地面の下の水道管か何かとの関係が原因だったというようなことをやっていたように記憶しています。自分以外の誰かにも認識出来る場合には、物理的な現象が起こっているはずで、それに幽霊などの説明を当てはめる前に、原因となる可能性をすべてチェックしなくてはならない、と思います。とはいえ、そのチェックをやる労力や時間などをなかなか掛けられないものです。だから人間は、怪奇現象に対して自分が納得しやすい物語を与えて、自分を納得させようとするのです。科学を好む僕としては、自分以外の誰かにも認識できる世の中のほとんどの怪奇現象は、何らかの物理的な原因を解明できるのではないか、と思っています。

しかし、あらゆる可能性を跳ね除ける怪奇現象も存在するかもしれません。

物理の世界で有名な話があります。ある研究者が、何かの研究のために電波マイクの雑音を取り除こうと躍起になっていました。ありとあらゆる原因を追究し、しかしそれでもどうしても取り除けなかった電波がありました。それが実は、宇宙マイクロ波背景放射(3K放射)と呼ばれるものだったのです。これは、天文学者がずっと探し求めていたものでもあり、彼らは偶然それを発見したのです。ビッグバンの名残りとも呼ばれ、彼らはこの発見によりノーベル賞を受賞しました。

だから、あらゆる原因を調べてもなお原因が分からないこともあるでしょう。しかし、それでも、それを幽霊のせいにするのは早計でしょう。さきほどの宇宙マイクロ波背景放射の発見にように、これまで人類が認識できていなかった、新たな現象である。そう考えるのが一番自然です。そこから、科学的な研究がスタートするでしょうし、そうなればいずれ誰かが原理を見つけるでしょう。見つからなくても、研究者にとっての未解明な現象として、科学の未解決リストに残る、というだけの話です。

どこにも、幽霊が入り込む余地はありません。
「納得のための装置」という意味では、幽霊の存在は必要不可欠です。しかしそれは、あくまでも人間にとっての価値しかありません。現象面から怪奇現象を捉えた場合には、そこに幽霊が入り込む余地はない。これが基本的な僕の考え方です。

しかし、そんな僕ですが、幽霊的なものを恐れている部分もあるんだろうな、と感じた経験があります。

かつて、沖縄では有名だというとある廃墟に行ったことがありました。一緒に行った人間が廃墟好きで、僕はそれについていっただけです。潰れたホテルで、何故か城跡の敷地内にあります。ちなみに、その廃墟に近づくのは実際には許可されていないと思うので、真似しないでくださいね。

僕らはその廃墟の入り口まで近づきましたけど、結局中には入れませんでした。入り口からすぐ、下階に降りる螺旋階段があったと記憶していますが、螺旋状であるが故に下階まで見えず、しかも薄暗いため、その螺旋階段が暗黒への入り口みたいに見えたものでした。
現実的には、もしかしたら浮浪者や犯罪者が潜んでいるかもしれないし、そういう危険はあるよな、と考えてはいました。しかし、あの時自分の足を止めたものが、そういう現実的な恐怖だけだったとは、到底思えないのです。意識の上では幽霊を否定していながら、無意識のレベルではどこか畏れを抱いている部分があるのかもしれないと、その時に感じました。

だいぶ脱線しましたが、映画の話に戻りましょう。
物語的には、「説明し過ぎない」というそのバランスが、とても良かったと思います。怪談話というのは、それが実話であると伝えられていればいるほど、細部は曖昧になるはずです。体験した本人が語るのであればともかく、基本的に怪談話は伝聞に次ぐ伝聞でしょうし、その中で派手な部分はより誇張され、どうでもいい部分は削られていくだろうからです。
この映画の中でも、よく分からないものはよく分からないまま放置される。すべての、背景を与え過ぎない。こうかもしれない、という予感は香らせつつ、決定的な説明はしない。それが映画全体に良い雰囲気を与えているし、リアル感も強めているのだと思う。

この映画は、実に細い糸を運良く辿っていく、というような形で話が進んでいく。様々な偶然が、岡谷マンションが建つ土地の過去の来歴を明らかにしていく。普通物語に過剰に偶然が入り込むと興ざめしてしまうものですが、この映画の場合はそうはならない印象を受けました。それは、糸が切れたら結局どこかで止まっていただけだ、という感覚を登場人物も観客も共有しているからではないか、と思いました。主人公にしても久保さんにしても、どうしても真相を暴かなければ気が済まない、という人物としては描かれていない。むしろ彼女たちは、途中からは何かに呼ばれるようにして調査を続けている。だからこそ、彼女たちは自分たちが追っているこの細い糸が途切れたらただそこで調査を止めるだけだよな、という感覚が伝わってくるのだ。だからこそ、過剰な偶然が邪魔にならない。それどころか、確かにこれほどの偶然が連続しなければ、都内のマンションでの出来事と、九州の昔から伝わる怪談が繋がるわけがないよな、とも思えるのです。

その過剰な偶然はまた観客に、調べても無駄だぞ、という感覚を与えもする。登場人物たちは、本当にいつ切れてもおかしくない糸を辿りながら何世代も過去の物語を拾っていく。同じことを自分が住んでいる土地でやろうとした場合、まあこううまくは行かないでしょう。だから、結局のところは分からないのだ、分からないまま僕らは生きていくしかないのだ、そういう気持ちにさせられる。それもまた、不思議な感覚だ。

映画の構成で面白いと感じるのは、岡谷マンションでの怪奇現象も含め、その土地で過去に起こっていた様々な、個別の問題だと思われていた出来事に、一つの一貫した理由を与える物語になっている、ということだろう。僕の感覚で言えば、やはりそれらの出来事は、個別の物語だと思いたい。映画が与えるその理由を受け入れたくないという気持ちがやはりある。それは、科学的ではないからだ。それよりは、いくつかの様々な出来事が、偶然同じ土地で起こった、と考える方がまだ合理的だと考えてしまう。

しかし映画を観ながら同時に、昔読んだある本を思い出した。「前世への冒険」という本だ。主人公がある占い師から、前世はイタリアの画家だった、というようなことを言われる。それでイタリアまで行って調べてみると、確かにその画家は存在し、しかも日本語に翻訳されていない、図書館の奥深くに眠っていた文献に書かれていたことも言い当てていたということが分かるのだ。
僕は前世の存在も信じないのだが、しかしその本は、どことなく信じてしまいそうな気持ちになった。そんなわけがない、と思いつつも、圧倒的な現実感を感じたのだ。この映画は完全にフィクションだと分かっているので、「前世への冒険」を読んだ時とまったく同じ感覚にはならないのだけど、しかしちょっと似たような感覚を覚えたのも事実だ。徹底的にリアリティを発散させる作りだからこそ、そういう印象になったのだろう、という感じがする。

先程も書いたが、リアル寄りにするために、物語の細部にはさほど説明がつかない。だからこそ、物語として閉じる場合穴だらけで、正直観終わった時点での納得感はさほど強くはない。ドキュメンタリーであるならともかく、フィクションである映画でこういう閉じ方をするのは勇気がいるだろう。恐らく、盛り上がりに欠けるつまらない映画だった、という感想になる人もいるだろう。まあそれはある程度仕方ないことかなという感じはする。僕自身も、凄く良かったというつもりはないのだけど、しかし、フィクションという枠内で観客を恐がらせるのではなく、フィクションでありながら観客の日常に侵食し、内側から恐怖を生み出させるようなそんなリアリティを感じる映画だったなと思います。

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