【本】窪美澄「晴天の迷いクジラ」

内容に入ろうと思います。
本書は、以下では連作短編集っぽく紹介しますけど、長編です。三人の、現実をもがきながら生きている男女の生き様を描く作品です。

「ソラナックスルボックス」
由人は、東京でデザイナーとして働いている。とはいえ、華やかな世界ではない。ブラックに近い会社の中で、人間として許容してはいけないレベルの仕事に忙殺される毎日だ。
子供の頃、母の視線は常に兄に向けられていた。身体の弱かった兄は、誰かの世話をすることで自分の存在価値を見出そうとする母親によって、厚く厚く介護されていた。由人は、端的に言って母親から放っておかれた。由人に構ってくれるのは、祖母だけだった。しかし由人は、祖母から受ける愛情に今ひとつ飛び込めないでいた。
専門学校に通い始めた由人は、ミカと出会う。やがて付き合う関係になるが、就職後仕事に忙殺された由人は、あえなくミカに振られてしまう。
由人のいる会社はおそらく、もうすぐ潰れる。もうさすがに、限界のようだ。

「表現型の可塑性」
由人が働く会社の女社長である野乃花は、東京から遠く離れた漁港のある町で生まれ育った。子供の頃から絵を描くことに掛けては神童で、家がどうしようもなく貧乏だったのだけれども、担任の先生の個人的な伝手で、県議会議員の息子である英則から絵を教わることになった。
高校生だった野乃花は、英則に恋をした。初めての恋だった。
初めこそ絵画教室を持っている英則のところへ生徒の一人として通うという体裁だったのだけれども、次第に二人は二人だけで会うようになった。野乃花は、絵を描くことができれば、そして英則に触れられさえすれば、すべて満足だった。
野乃花の妊娠に気づいたのは、野乃花の母親だった。

「ソーダアイスの夏休み」
正子は成長するにつれて徐々に、母親がよそとはどうも違うようだと気づくようになった。
正子の母親は、正子の姉にあたる長女を幼くして亡くしていた。それが大きな契機となって、母親は正子の健康や交友関係に異様に干渉してくるようになった。ずっと幼かった頃は、それが当たり前だった。他の家の子と学校で少しずつ関わるようになって、初めてその違いを知ることになった。
母親の移行で友だちを家に呼ぶこともなかなか難しく、また門限を設けられていた正子には、友だちを作ることがまず困難だった。そんな時、同級生の男子との関わりから、彼の姉と親しくなるきっかけがあった。正子にとって、初めて親友と言える存在だった。
彼女との関係は、そう遠くない内に終わった。

「迷いクジラのいる夕景」
由人・野乃花・正子の三人は、何故か座礁したクジラを見に行くことになった。何故だろう。由人が強引に主張したのは確かだけど、何故この三人なのだろう。三人は、日光によってやけどしつつあるというクジラの皮膚を眺め、クジラのどこへも行けなさを自らに重ねていた。
クジラ対策に駆り出されている人の家に泊めてもらうことになった三人。彼らは成り行きから、『家族』としてそこにしばらく滞在する。

というような話です。
窪美澄の作品を読むと、必死で生きていた頃の自分自身のことを思い出す。
僕は、今こうして大人になってからは、割と穏やかに毎日を生きていけるようになったのだけど、昔はそうじゃなかった。哺乳類なのに水中で暮らすクジラみたいなものだ。時々水面に顔を出して呼吸をしないと、長いこと水の中にいることが出来ない。水中に居続けることが僕にとっては苦痛でしかなくて、でもクジラである僕は、決して陸では暮らせない。陸地というフロンティアの存在が自分の視界に入っていたかどうか、もう覚えていない。けど、たぶん見えていただろう。そこに僕は行くことはできないんだと、きっと思っていたに違いない。
魚類だったらよかったのにな、と思うことは何度もあった。
子供の頃、子供の世界の中をスイスイと自在に動き回れる人が羨ましかった。子供であることを最大限に活用している人がいた。無知故に自由な行動を取れる人もいた。あるいは、本当はクジラなのに自分のことを魚類だと実にうまく騙し込んでいる人もいた。
僕はそのどれにもなれなかったような気がする。
自分を魚類だと騙そうと思って、必死になっていたはずだ。子供らしさを活用できず、鈍感なわけでもなかった僕には、その手しかなかった。でも、これは結構辛かった。何が辛かったのだろう?本当はクジラであることを知ってもらえないこと?魚類であると偽ること?たぶんその当時は、言葉にしたことがなかったんじゃないかと思う。
僕は、本書で描かれる人たちにように、壮絶な環境に生まれ育ったわけではない。それなりにありきたりの環境で生まれ、特にしんどい事実を抱えているわけではない家族と共に生きていた。でも僕にはその生活が苦痛で苦痛で仕方がなかった。家族、という存在が非常に辛かった。いつでも叫びだしたい自分を抑えていたような気がする。あの頃の僕は、もうどんな時でも我慢ばかりしていた。
今思えば、僕の家族が悪かったわけではないのだろうな、と思う。恐らく、僕個人の個性の問題だ。でも、当時はそんな風には思えなかった。母親が、父親が、兄弟がダメだからこそ、僕はこんなに辛いんだ、そう思い込もうとした。
本書で描かれる人たちは、紛れも無く辛い家族を抱えている。僕のように、フェイクの辛さではない。誰かに語ることを躊躇してしまうような、本物の辛さだ。
家族というのは、何故だかよくわからない社会的な理由によって、一方的に切り離すことが出来ないという点が一番しんどい。自分の都合で選ぶことはできないし、自分の都合で勝手に離れることは出来ない。由人も野乃花も正子もみんな、家族との関わりに振り回され、その遠心力で人生の中心から振り飛ばされてしまっている人たちだ。
本書の主人公は由人・野乃花・正子の三人だが、物語の遠景には常に、『母親』という存在が立ちはだかる。
母親というのは、なかなか厄介な存在だ。僕は一生、母親というものを経験することはないだろうから、はっきりと実感する機会は恐らくないだろう。でも、様々な形で描かれる『母親のあり方』を読むにつけ、母親という存在の暖かさと同時に、母親という存在の難儀さもひしひしと伝わってくると感じます。
例えば由人は、母親にあまり関わってもらえない子供だった。母親の愛情は、初めは兄に、そしてそこからどんどん対象を変えるのだけど、結局由人に向けられることはなかった、その事実は、由人という人格を創り上げる上でとてつもなく大きな影響力を持った。

野乃花にとって母親というのは、自分のことだった。自分が母親になることなど、まだまるで想像もしてなかった頃に、子供が生まれた。野乃花が子育てをすることになる環境は、かなり孤独だった。周りに人はいるはずなのに、野乃花は子供と一緒に空間に閉じ込められているみたいだった。母親というのは、なんと困難な存在なのだろうか。
そして正子。正子にとっての母親は、立ちはだかる大きな壁だった。初めは、それが壁だと気付けないでいた。次第に母親の存在を壁だと認識できるようになると、その圧迫感におののいた。母親を飛び越えてその向こう側になど、到底たどり着けそうになかった。壁としての母親の存在は正子に、ありとあらゆることを諦めさせる負の装置として働いた。
僕にとって母親というのは、無言の圧力だった。僕に、何か言うわけではない。干渉してくるでも、叱咤するでもない。しかし、体中から『期待』という名の放射を放っているように僕には感じられた。その放射から、僕は逃れたかった。でも、実家にいる頃は、それが出来なかった。実家から離れてみてようやく、僕はホッとした。実家にいた18年間は、ホッとすることなどほとんどない生き方だったのだなと、改めてそこで実感した。

父親という存在は、家族という形態の中でゼロになることは出来る。もちろん、マイナスにもなりうるしプラスにもなりうるが、しかし父親はゼロにもなれる。母親は、無理だ。母親はゼロにはなれない。どうしたって、針はどちらかに振れる。それがプラスであれば、平穏だ。しかし、マイナスに振れることも当然ある。子供には、それを選ぶことは出来ない。後天的に対処可能な領域もきっとあるだろうけど、基本的には、運だ。
母親という存在が苦手な僕にとって、正子の母親の存在は、もう嫌悪感を抱かせるほどの醜悪な存在だった。一人子供を亡くしているというのは、わかる。わかるつもりでいたい。でもそれが、誰かを縛る鎖になってしまっては、全然意味がない。そういう意味では、由人の母親も似たようなものかもしれない。これは偏見だけど、子供が出来ると同時に(あるいは結婚と同時に)仕事を辞めるケースが多かっただろう一昔前の社会の中では、母親というのは子供の存在に何らかの形で依存することによってしか、自分の存在意義を確かめることは出来なかったということなのだろうか?
素晴らしい未来の可能性を強く望めば、人生というのは可塑性を持ちうるだろうか?
本書を読んで、このことを考えてしまった。
人生は、流動的だし不確定だ。しかし、完全にではない。僕等の未来は、過去の積み重ねによってある程度固着されるし、確定されていく。生きていくということはすなわち、可塑性をどんどんと失っていくということでもあるのだろう。
この、生きていくこと=可塑性の喪失というのは、生きていく上で非常に大きな足かせとなる。つまり、一度落ちると、元の場所に這い上がるのでさえ非常に困難なのだ。
本書で描かれる三人も、まさにそういう状況にいる。どこが分岐点だったのか、それは色んな見方があるだろう。しかしいずれにしても彼らは、底辺に近い場所で人生の可塑性が失われつつある。
この可塑性を取り戻す『何か』は存在するのか。
人生はいつの間にかスタートしているし、そしてそのくせ、走り続けてもゴールが見えてくるわけでもない。どこを目指したら、何をしたらいいのかよく分からないまま無為に走り続けて、いつの間にか可塑性を失っている。この環境は、彼らにとってのささやかな希望でさえ、一瞬にして絶望に変換させてしまう。そしてその事実こそがまた、人生に可塑性をさらに失わせることになる。
僕は昔から、『生きてさえいればいい』という考え方に、なんとなく違和感を覚えてしまう。本当にそうだろうか?
人生の可塑性を取り戻す何かがちゃんと存在するのであれば、『生きてさえいればいい』というアドバイスは有効だと思う。きちんとした社会では、それが成り立ちうるのではないか。わからないで勝手に書いてるけど、僕はそんな気がするのだ。
でも、今の日本はどうだろう?
由人はある瞬間、「この国はおかしくないか?」という疑問を立ち上らせることになる。
僕も、そう思う。
その「おかしさ」を、可塑性で表現することは出来るんじゃないだろうか。つまり今の日本は、人生の可塑性を取り戻すにはあまりにも困難な国だ、と。
そんな世の中にあって、『生きてさえいればいい』という意見に、僕は若干の疑問を感じてしまう。生きて、それで、どうすればいい?
僕は、自分が幸運だったという自覚がある。それは、今僕はちょっとした恵まれた環境にあるという自覚があるのだけど、しかしそれについてではない。今僕が不幸な環境にいるわけではない、というその事実に対して、僕は幸運だったという自覚がある。人生のどこかの瞬間で、ほんの少し何かが違っていたら、僕は容易にもっと辛い環境に押し込められていただろうと思う。
僕は運良くこうではなかった。でも、それはただ単に運が良かっただけだ。
僕は、運悪く辛い環境に身を置かざるを得ない人たちに、『それでも、生きていさえすればいいんだ』とは、なかなか言える自信がない。人生の可塑性が失われ続ける社会の中では、生きていけば行くだけ、辛い何かを次々と背負うことになっていくだろう。
座礁したクジラを助けるべきかどうか。作中で、そういう話が出る。もし海に返すことが出来ても、生き残れる可能性は結構低い。そのクジラにずっと付き添っていくわけではない僕たちが、「それでもクジラは生かしてあげるべきだ」というのは簡単だ。しかし、それは、本当に正しいことなのか?
ほんの僅かな可能性でもあれば、僕たちは常に、前に進まなくてはいけないのだろうか?前に進む努力を諦めてしまうことは、悪なのだろうか?
僕らは、どこだって歩いていけるはずだ。
そこに道がなくたっていい。
道しか通れないわけじゃない。
前に進めなくたっていい。
自分にとってのゴールが、常に前にあるとは限らない。
著者がこの作品を通じて伝えたかったことがなんなのか、それは僕にはわからない。『生きていさえすればいい』かもしれないし、まったく別の何かである可能性の方がきっと高いだろう。いずれにしても、僕はこんな風に感じてしまった。僕たちは、無数にあるはずの選択肢の中の、何故か選びとることが出来ない多くの選択肢の存在を忘れさせられているのではないか。人生の可塑性を取り戻す可能性は、そこにあるのではないか。
三人が、何故か座礁したクジラを見に行く過程で、それまでに絶望にピリオドを打とうとする過程を描いた「迷いクジラのいる夕景」は、やっぱり特に良かった。まったく別々の絶望を背負いながら、騙し騙し、どうにかこうにか生きてきた三人は、座礁したクジラに自分を重ねることで、何か悪いものが少し溶け出して行ったり、無理しすぎてトゲトゲしていた部分が丸くなったり、こだわっていた何かを諦めたり出来るようになる。それまでの三章で各人の生い立ちがきちんと描かれているからこその最終章であるのだけど、彼らの生い立ちが最終章でうまく混じり合い、融け合い、絡まり合っていく中で、少しずつ、自分が打つべきピリオドの形を見定めていけるようになる。ギリギリ炎が燃え尽きない、限界の直前をうまく引き出しているからこそ、彼らが踏み出すことになる一歩の偉大さが、胸に染み入ってくるのだろうなと思います。

「ふがいない僕は空を見た」で衝撃的なデビューを果たした著者。個人的な感想で言えば「ふがいない」の方が好きなのだけど、本書もやはり壮絶で凄まじい作品だった。本書を読んだある人が言ってたのだけど、かつて文豪たちが創作によって引き受けていた『絶望を描く』ということを、現代的な設定の中でここまで描き出せる作家は、窪美澄ぐらいしかいないのではないか、と。確かに、それはその通りかもしれない。
最後に、僕が好きなフレーズを抜き出して終わろうと思います。

『君がもし、人より優れた特別な何かを持っていたとしても、それをなんの加工もせずに、後生大事に抱えたままでは、まったく意味がない。この世界で生きていくためには、求められるように、その特別な何かを、自由に形に変えていくことのほうが大事なんだ。どんな環境にいたとしても』

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