【映画】「さよならテレビ」感想・レビュー・解説

『ヤクザと憲法』は、衝撃的なドキュメンタリー映画だった。実際のヤクザの事務所に密着したドキュメンタリー。こんなものが撮れるんだ、という驚きと、映像によって社会に問題提起をするという気概に溢れていた。未だに、「今まで見た映画の中で◯◯」という質問をされると、真っ先に頭に思い浮かぶ映画の一つだ。

その映画を撮影した東海テレビ。その東海テレビが、今度は東海テレビを被写体にする。

東海テレビ報道部。このドキュメンタリー映画の舞台だ。

この映画をどう観るのが正解なのか、未だによく分からない。映画のラスト、色んなものが解体されていくような感じがして、「え?ええっ???」となった。映画の中で、

【ドキュメンタリーって現実ですか?カメラが回ってるって状況は現実ですか?】

という問いかけがなされる場面がある。まさにそのセリフを思い出したし、ドキュメンタリーが描く現実ってなんだよ、と思わされた。そういう意味で、森達也的な雰囲気もあると感じた。

とはいえ、その辺りのことにはあまり触れない方がいいと思うので、「その辺りのことに触れていない感想だ」ということを念頭に読んでもらえるといいかなと思う。

冒頭。本映画の監督(もちろん東海テレビの社員、なのか契約社員なのかはわからないけど、とにかく同じ社内)である土方氏が、突然報道局にカメラを持ち込み、各机にマイクを設置し始める。困惑する報道局の面々。翌日、「勝手に取材対象にして腹立たしい」と抗議があり、両者で話し合いが行われる。そして二ヶ月後、「机にマイクを設置しない」「打ち合わせの撮影は事前に許可を取る」「放送前に試写を行う」という3つを条件に、報道局にカメラが持ち込まれることになる。

というところから映画は始まっていく。
当初は、報道局全体を写していくのかな、と思ったが、次第にカメラは、3人の人物を中心に追っていく。

「みんなのニュースOne」のキャスターである福島
契約社員として働き始めたばかりの新人記者である渡邊
50代ながらジャーナリズムに熱い契約社員である澤村

まずはそれぞれの紹介をしよう。

キャスターの福島は、報道局が担当している夕方の報道番組のメインキャスターだ。彼は冒頭で、原稿を相当に準備して放送を迎えるシーンが映し出される。スタッフの中には、そうやってガチガチに準備すると、臨機応変の対応が利かないから微妙なんだよなぁ、という反応も出たりする。当初僕は、それは福島の性格の問題なのだと思っていたのだけど、後々その理由が明らかになる。

新人記者の渡邊は、記者のイロハをあまり分かっていないまま仕事をしている。テレビの仕事に興味を持ったのは、中学の頃の社会科見学の影響もあるが、一番は、自分が推しているアイドルに、テレビの仕事がいいと勧められたからだ(映画の中で、アイドルのライブのシーンも出てくる)。しかし彼は、なかなか残念なミスを連発してしまう。そのミスを、上司はこっぴどく叱責する。


同じく契約社員である澤村は、「是非モノ(通称「Z」)」と呼ばれるものを主に担当している。「是非モノ」というのは、「是非取材に来てくださいとお願いされるもの」であり、スポンサーなどの絡んでくるものだ。自宅に、ジャーナリズムに関連する本が多数ある澤村は、「ジャーナリズムとは何か」ということについて熱い信念があり、その澤村にしてみれば、「是非モノ」を扱うというのは忸怩たる思いがあるのだが、それは仕事としてこなし、一方で、ジャーナリズムに関する集まりなどに出ていたりもする。

この3人が中心に描かれていく。

さて、この映画には、ある種の「核」となるものがある。それは、2011年、東海テレビが犯してしまったとある重大なミスだ。このミスの詳細は、一応ここでは書かないが、ネットで調べればすぐ出てくるだろう。僕自身忘れていたが、確かに当時そんな騒動があったような記憶もうっすらある。2011年の、社会的に大問題となったミスが遠景にあった上で、東海テレビという現実が切り取られていく。

キャスターの福島と新人記者の渡邊は、まさにこの遠景の上に描かれていく存在だ。福島は、そのミスが起こった当時もMCを勤めていた。その当時の記憶が、彼を変化させた。渡邊は、そのミスを実際には知らない。入ったばかりだからだ。しかし、2011年のミスがあるからこそ、渡邊が犯すミスが、恐らくではあるが”過剰に”叱責される。もちろん、ミスはあってはならないし、深刻なのだが、なんとなく、2011年のミスがなければ、もう少しちがう扱われ方だったんじゃないかな、という気がしなくもない。


この映画の中で何度か、子供たちに向けてマスコミがどういう役割を果たしているのか、という説明の場面が挿入される。「①事件・事故・災害・政治について伝える」「②弱者を助ける」「③権力を監視する」という3つを挙げている。その内、福島と渡邊は、②の部分に関わる存在として映画の中で描かれていく。福島は、かつて番組のミスによって弱い立場の人を傷つけてしまった、という立場で。そして渡邊は、渡邊自身が弱い立場の人間である、という立場で。映画の中で、上記3つが頻繁に登場するのは、ある種の自己批判みたいな部分があるのだと思う。お前たち(というか、監督も東海テレビの人間なので、私たち、と書くべきか)、ちゃんと「弱者」のための報道をしているのか、というような。

さて、一方の澤村は、「③権力を監視する」に関わる存在として描かれる。「是非モノ」を担当する彼だが、もちろんそうではない企画を上げることも出来る。その中で、この映画で取り上げられるのは、「共謀罪」についてだ。「共謀罪」の容疑で逮捕されてしまったある人物を取り上げながら、「共謀罪」の是非を問う企画を上げ、実際にその取材を行う場面が描かれていく。


この映画において、澤村の存在が、一番ドキュメンタリーっぽい。「ドキュメンタリーっぽい」という表現はおかしいのだけど、福島と渡邊は、「さよならテレビ」というタイトルのドキュメンタリー映画で描かれる存在としては、ちょっとズレているという印象がある。それが悪いわけではない。むしろ、澤村の方が、「さよならテレビ」というドキュメンタリーにおいて「成立しすぎている」という感じもしなくはない。まあこの辺りのことは、僕の感覚でしかないのだけど。

澤村の描かれ方と対比させるようにして、報道局の会議では、視聴率の話ばかりが出る。まあ、これはしょうがない。テレビである以上、視聴率を稼がないとダメというのは、企業の論理としては当然だろう。しかし、あくまで契約社員であり、東海テレビの社員ではない澤村は、このあり方に疑問を呈する発言を随所でする。

【このフロアにも、共謀罪に関心ないって人の方が多いんじゃないですかね】

【日本のメディアって、結局会社員なんですよね。収入を維持するためにしがみつく、みたいな。】

【急にテレビと新聞が嘘っぽくなっちゃったんだろうね】

ジャーナリズムは権力を監視する存在でなければならない、それが民主主義の根幹を支えているんだ、と考える彼の熱い気持ちには賛同する。しかし一方で、結局のところ視聴率が取れないメディアだったら、権力の監視もおぼつかないですよね、という見方もある(この映画の中で、そういう主張をする人は登場しないが)。権力を監視するためにはメディアの力(=視聴率)が必要で、でも視聴率を取るためには、権力の監視のようなネタでは難しい、というジレンマがある。

【ジャーナリズムっていうのは、問題を解決する気概でやらないと。もちろん、テレビも新聞も、結局は問題を解決できないですよ。でも、どうやったら解決できるのか、ギリギリまで考えるべきで、その上で成り立つ表現っていうのがあると思うんです。それを本気でやらないと。けど、目先の数字を追いかけるばっかりになっちゃってる】

彼は、彼の立場だからこういうことが言えるのであって、別の立場であればこういう発言も難しくなるだろう。例えば映画の中で、高い役職にありそうな人が、「残業を減らせっていうのを徹底的にやってくれ」と報道局の面々に言う。局員からは、「残業は減らせ、他局を抜け、は無理ですって」と反論が出る。それに対して、もうとにかく仕方ないんだ、というような返答をする場面がある。彼も、個人としての思いは様々にあるだろう。しかし、立場がそれを言うことを許さない。組織は、様々な理屈で動いていく。澤村の主張は正しいと思うし、理想的ではあると思う。例えば50年後、メディアの衰退によって権力の監視機能が失われ、日本もまともな民主主義が成立しない国になっているかもしれない。そうなった時、もっと早くから手を打っておけば良かったと、多くの人が後悔するかもしれない。とはいえ、やはり今、澤村の理屈で物事を動かしていくことは、難しいだろう。メディアというものの存在や役割が激変していく中、これからどういう立ち位置を担うべきなのかというビジョンが誰にも見えていなくて、みんなでもがいているのだろうと思う。

【テレビ的な現実を切り取ってるだけじゃないか?テレビの枠内に収まっちゃってるんじゃないか?】

冒頭に書いた通り、この映画は非常に見方が難しい。その理由は、是非自分で観て確かめてほしいが、この映画が示唆する現実、そして未来について考えていかなければならない、ということは、日本の、いや全世界の課題であるということは、間違いないだろうと思う。

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