【映画】「天空の蜂」感想・レビュー・解説

1995年8月8日。その日錦重工業の湯原は、自らが開発者として携わったヘリ「CH-50J(通称:ビッグB)」の納入式に家族を連れてきていた。日本初の、コンピュータによる自動制御が搭載された自衛隊用ヘリだ。この5年間、湯原は開発のことばかりに関わっていて家庭を顧みず、妻と息子との関係は冷えきっている。湯原は、技術者としてこの開発に携わったことに誇りを持つ一方で、「俺が良い父親になれる可能性はゼロだ」と、自身の父親としてのあり方をばっさりと切り捨てる。
納入式を待つ湯原は、信じられない光景を目にすることになる。なんと、式典会場に置かれていたはずのビッグBが動いており、さらになんと、息子の高彦が中に乗っているのだ。あと一歩のところで息子を下ろすことが出来なかった湯原は嘆きつつも、何故こんなことが起こったのだと呆然としている。
ビッグBが向かった先は、考えうる限り最悪の場所だった。
福井県敦賀市にある、高速増殖原型炉<新陽>。その原子炉の真上に、ビッグBはホバリングしているのだ。

『日本の原発を、全て破棄せよ。従わなければ、大量の爆発物を積んだビッグBを原子炉に墜落させる。燃料が無くなるまで、あと8時間。貴方がたの賢明な決断に期待する。 ””天空の蜂』

”天空の蜂”を名乗る人物からのFAXに、日本中は大混乱に陥る。<新陽>の原子炉がもし破壊されれば、原子炉を中心に半径250kmの範囲を、向こう数百年捨てなければならないかもしれない。さらにビッグBには、湯原の息子・高彦が乗ったままだ。警察は、自衛隊は、技術者は、刑事は、国は、そして国民は…この国を、救うことが出来るのだろうか?

というような話です。

とんでもない映画でした。これは、全日本人が観た方がいい映画だと思いました。

なんて書くと、小難しかったり、社会派っぽすぎたりするのかなと思わせるかもしれませんが、そんなことはありません。まずこの映画は、エンタメ作品としてメチャクチャ面白く観ることが出来ます。
物語の設定だけでも、この物語の凄さは少しは伝わるのではないかと思います。乗っ取られたヘリが、稼働中の原子炉の上にあり、落ちれば日本の息の根が止まる可能性がある。僕らは、9.11の記憶を持っているので、現実にありえないことが起こることを知っているわけですが、しかしこれほどまでにスケールの大きなテロは、物語の中でさえそうそう見つけることは難しいでしょう。

さらに物語を緊迫させるのが、8時間というリミット。もちろん物語的に、過去の回想などもあるので、厳密に8時間の出来事だけを追った物語ではないのだけど、主軸となる物語はたったの8時間の出来事です。この8時間で、日本の未来が決すると言っても過言ではない。緊迫感は否が応でも高まっていきます。
さらに、エンタメ作品として観た場合、高彦君の救助作戦はまさに圧巻と言っていいでしょう。具体的には書きませんが、とんでもない作戦が展開されます。作中で、自衛隊では前代未聞の作戦と語られますが、そりゃあそうだろうと言う感じがします。犯人の出した要求をすべて満たした上で展開できる唯一の作戦が採用されたわけですが、もう無茶苦茶です。何度も、あぁもうこれはダメだ、って思いました。
原作を読んだのは大分昔なので、詳しいことは覚えていませんが、この救助作戦は映画でもほとんど同じ形で描かれていると思いました。ただ、少なくともこの救助シーンに関しては、小説よりも映画の方が圧倒的に緊迫感があります。文字ではなかなかイメージしにくかった救助作戦(自衛隊でさえ前代未聞の作戦なんだから、無理もないですね)を、映像でバーンと見せられると、その凄まじさに息を飲みます。
この救助作戦を観て、(現実の世界でこれと同じ作戦をしたわけではないということは当然分かっているのだけど)、「自衛隊って凄いな」と感じました。隊員にしても、訓練もなしでいきなり現場に突っ込まれるわけで、「無理です!」と音を上げます。でも、彼らはそれをやり遂げます。自衛隊の活躍が大々的に報じられる機会が時々ありますが、自衛隊員がどんな気持ちでその任務に従事しているのか、そういう部分まで踏み込んで想像してみる機会はそうありません。この映画で、自衛隊員のその無尽蔵の使命感みたいなものが大きく描かれていて、様々な議論にさらされる自衛隊という組織の凄まじさを感じました。この「自衛隊の使命感」は、物語のラストにも繋がっていく部分で、このラストがまたいいんです、ホント。映画の中で扱ったすべてのテーマを一箇所に凝縮したかのようなラストは、この壮大過ぎて収めどころに迷う物語を「個人の物語」として閉じるのに非常に大きな役割を果たしていると感じました。
また、スペクタクル的な側面ではありませんが、物語に色を添えるという意味では、刑事二人による捜査のパートは結構好きです。若手と古株のコンビが、ヘリのハイジャック犯を追い詰めるわけなんですけど、若い方の刑事がいい味を出してるし、コンビを組む古株の柄本明とのコンビは絶妙です。「これが俺たちの仕事だ!」と古株が若手に怒鳴る場面があります。若手には、自分のやっていることが犯人に結びつくとは思えず投げやりになりそうになるのですが、それを古株が一喝するのです。終始泥臭さの中で手探りで犯人を追うこのパートは、物語の全体の緩急という意味でも重要ではないかと思いました(他のパートは大体ずっと緊迫しているので)。ついに犯人と思しき人物の名前が判明する場面では、(その瞬間には分からなかったのだけど、後から考えて)なるほどだから古株はそいつを犯人だと思えたのかと思えるようなちょっとした仕掛けもあるし、それが結局”蜂”というコードネームの背景にあるものとも繋がっていくわけで、うまく出来てるなぁ、と思うわけです。
さて、この映画は、家族の物語でもあります。
物語の主役級の人物として、ビッグBの開発者である湯原と、<新陽>の対策本部に常駐することになる、<新陽>の設計担当者である三島が出てくるが、この二人は同期であり、そして、共に家族との難しい関わりを抱えている。
湯原は、上空800mのビッグBに息子が囚われているという状況の中で初めて、「自分にとって大切なもの」の存在に気づく。

『あなたは、自分が100%の責任を負えないものからは、逃げるのよ』

湯原は妻に、そう言及される。湯原には、そう言われる心当たりがあり、そのことに三島も関わっている。同期でありながら、今ひとつ協力体制を作れないでいる二人だが、三島は湯原に、「家族を守れない人間に、父親の資格はない」と厳しいことを言う。

『家族って、血を流してのたうち回って、ようやく手に入れられるものなのよ』

湯原は、ビッグBの開発にかまけて、ただ言い訳を続けてきただけの人生に気付かされる。

『俺は、俺なりのやり方で家族を守ろうとしてきたつもりだ。でも、俺には想像力が足りなかった』

物語の序盤で、ほとんど壊れかけていた家族が、この不幸な事件をきっかけとして立ち直っていく。息子のことをまるで知らなかった自分にも、息子の声をまるで聞こうとしていなかった自分にも気付き、湯原は、技術者として、そして何よりも一人の父親として、この壮大な事件に立ち向かっていく。
三島の物語を描くのはなかなか難しい。何故ならそれは、何故三島が<新陽>の対策本部にいるのかに関わってくるからだ。三島は<新陽>の設計者であって、保守運転を行う技術者ではない。必ずしも現場に必要な人間なわけではない。湯原も、同じ疑問を持ったのだろう。三島にこんな風に尋ねている。

『今日はどうしてここに来たんだ?思い出したからじゃないのか、あの日のことを』

三島は、「当たり前のことをしただけだ」と流すが、三島の、家族に対する様々な葛藤が、この物語の背景にしっかりと横たわっている。
二人の”父親”は、共に技術者として現場で存在感を持つ。しかし、様々な隙間で、この二人の家族の物語が見え隠れし、それが物語を大きく動かしていくことになる。三島はある場面で、「今日気づいたならいいじゃないか」と湯原に言葉を返すが、それは、「気づけなかった自分」を責める言葉でもある。他にも、三島が湯原に発した様々な言葉が、実は、ブーメランのように三島に返ってくるように感じられる場面が多々あった。共に技術者であり父親でもあるこの両者が、物語にどう関わっていくのかも見どころだ。

そしてこの映画は、僕らが生きる社会を、そして僕ら自身をも容赦なく抉り取っていく物語でもある。
この物語の本質的なテーマは「原発」だ。原発の存在抜きに、この映画を語ることは不可能だ。
原発というのは、実に複雑な存在だ。誰がどこから観るのか、どんな経験を経て今何をしているのか。そういう様々な要素が、原発という万華鏡のような存在を様々な姿に見せていく。
僕らはその事実を、3.11の震災の時に嫌というほど思い知った。思い知ったはずだ。僕らは、「安全だ」と言われ続けていた原発が安全ではないことを知り、「放射能」という目に見えないものに怯え、原発がなければ電力が足りなくなると言われながら、原発が稼働しない世界を生きた。東北で震災を直に経験した人や、全国各地の原発周辺に住んでいる人などは、さらに多くの原発の側面を知ることになっただろう。
この映画の原作は、今から20年も前に描かれた。
20年前。原発はどんな存在だっただろう?僕はまだ小学生だったと思うので、原発というものの存在を知っていたかも怪しい(原発のある県に住んでいたわけでもないので)。原発の反対派は当時から活動をしていただろうけど、どうなのだろう、今ほど(3.11の震災後の現在ほど)には、原発の怖さを啓蒙することは出来ていなかっただろうと思う。原発建設による交付金で潤った県はその恩恵を受け、そこで作られた電気で東京の人々は生活を続けいた。
そんな20年前に、この物語は描かれた。
こんな表現は正直したくはないのだけど、東野圭吾は20年も前に、まるで”予言”でもするかのように、原発の未来を、原発が内包する悲惨な未来を、作家的想像力で以って透視していたかのようだ。僕らが、3.11で思い知ることになった原発の様々な側面を、その圧倒的なリーダビリティを持つ物語の中で様々に描き出していた。

一つ書いておく。この映画は、原発のどんな立場にも与していないと僕は感じる。そういう意味で「主張」がある物語ではない。何か特定の「主張」をするのではなく、原発という万華鏡のありとあらゆる側面を見せようとしていると感じる。もちろん、この映画一本で、原発のすべての側面を描ききることが出来るわけではない。しかし、エンタメ映画という、楽しんで観ることが出来る娯楽作品に、これだけ様々な姿を織り込んで、原発というものの有り様を映し出そうとしているところに、この映画を作った人達の矜持のようなものを感じる。表現に従事するものは恐らく、何か表現する際に「3.11」を避けて通れないと感じることが多いのではないかと思う。この映画は、直接的に3.11を描く作品ではないが、3.11の震災が露わにしたものを描き出しているという点で同一直線上にあると感じられる。そういう物語に、表現者としての矜持を感じる。

原発を持つ県民は、原発を、金を落としてくれる存在として、息子を奪う存在として、ただ単に働く場所として、そういう様々な風に見る。地元民の話はそこまで深く描かれることはないのけど、「プルトニウムで飯を食ってる人間」や「床に這いつくばって掃除している」など、物語のところどころで地元と原発の関わりが描かれる。原発を持つ県であるが故に当然、原発関連の仕事をする人間も多い。それがさらに、県民の原発を見る視線を複雑にする。

国は、原発を、どんなことがあっても停めることが出来ない存在と見る。

『避難なんてさせるな。安全性を否定することになるだろうが』
『六ケ所村もようやく着工にこぎつけたところだ。こんなことで蒸し返されたくない』
『(<新陽>の所長に向かって)聞かれたことに技術者として答えていればいいんだ』
『(テレビで)要求には従えないというのが政府の見解です』
『(テレビで)放射性物質が放出されることはありません』

震災時、震災後、果てしなく繰り返された言葉が、この映画の中にも登場する。国の結論は、一つだ。原発政策はなくせないし、原発も廃炉には出来ない。
僕自身は、「原発という技術」に対してはある程度以上の信頼感を持っている。もちろん、科学に絶対はないから、「100%の安全」はありえない。けれども、日本の技術レベルをもってすれば、相当安全度の高い原発を維持することは出来るのだろうと思う。

僕が認められないのは、「原発に関わる、技術者以外の人間」だ。彼らが、「かなり安全な原発」を「全然安全ではない代物」に変えている張本人だと僕は思っている。
いくつか本を読んだだけだから、あくまでも印象に過ぎないけど、今の日本の原発政策では、「安全な原発」を維持することは無理だと思う。技術の問題でも、技術者の問題でもない。技術者以外の人の問題だ。それは、この映画に時折登場する政府筋の人間の言動を見ているだけでも大体理解できる。

『人命より、電気の方が大事なんだ』

この映画は1995年の物語だが、2011年以降、僕らはこのことを如実に思い知らされることになる。3.11で、原発の安全性は崩れた。そして、国が、人の命を蔑ろにしてでも原発政策を進めていこうとしている姿を、僕らは見続けてきた。
彼ら、国の人間の発言には、恐ろしいものを感じさせます。同じ言語を使っているとは思えないほどに。

技術者は、原発を、どうあっても守るべき存在と見る。国の政策がどうなどということとは関係なしに、彼らは技術者の誇りとして、矜持として、また、未来を創っているのだという自負として日々の業務に携わっているし、そういうものの結晶として彼らにとっての原発は存在する。
技術者は、無責任な政府の人間らとはまた違った形で、原発の安全性を疑わない。彼らは、技術的、理論的根拠をもって、原発はどんな事態であってもトラブルを回避しうると信じている。
彼らのその信念を、僕は否定しない。少なくとも、1995年にいる彼ら技術者のことは、否定しない。
しかし僕らは、2015年の世界に生きている。僕らはもう、「原発が絶対安全なわけではないこと」を知ってしまった。技術者は繰り返し、ビッグBが落ちてきた時の対応について語り、「放射能漏れが起こることはない」と言う。安全である、と。しかし、技術者がそういえば言うほど、2015年にいる僕らは、残念な気持ちになる。1995年の彼らには想像しえない現実が、ありとあらゆる想定を飛び越えた事態が起こりうることを、僕らは知ってしまっている。だから、僕は、1995年の技術者の”自信”を垣間見る度に悲しい気持ちになる。
しかし、技術者の矜持は、凄まじいものがある。特に所長のあり方には強い感動を覚える。福島原発事故の際、自らの命をかなぐり捨ててまで現場で指揮を執り続けた吉田所長のノンフィクションを読んだことがあるのだけど、<新陽>の所長のあり様に、吉田所長の姿が重なった。

『原発の安全性を信じるということは、ここで働く人間を信じるということなんです』
『そういう意味で、我々は負けたのかもしれません。しかし、負けて守れるものがあるのなら、私は喜んで負けます』

原発というのは、最先端技術と国の政策のまさに汽水域に存在する。技術だけでも、政策だけでも成り立たない。しかし、何かあれば、どうしても政策の方が強くなる。技術が軽視される。そういう現実を、この所長は何度も飲み込んできたのだろう。それこそ、技術者の矜持だ。自分たちの仕事が誇るべきものであるという信念がなければ、異次元のような世界でやってはいけないだろう。

『ないと困るが、あると疎まれるものがある』

ある人物が、そんなことを言う場面がある。ある人間にとっては”誇り”そのものである原発も、別の人間からすればただの排泄物に過ぎない。

『それでも、<新陽>を守らなければならない』

そう呟く所長の声は、力強い。

最後に二つ。非常に印象的だった場面を書いてこの感想を閉じようと思う。
一つ目は、ある場面でポツリと零されたセリフだ。今この日本を救えるのはあなたしかいないんですよ、と詰め寄られた人物は、こう呟く。

『この国では、原発にヘリが落ちても大丈夫だって言ってるじゃないですか』

これに答えられる者は誰もいない。その通りだからだ。この呟きは、原発という異様な存在が内包する矛盾を鮮やかに取り出して見せたようで印象的だった。

もう一つ。ある人物がこんなことを言う場面がある。

『俺が売ってるのは技術だ。原発じゃない』

物語全体の中で、このセリフだけ、僕はうまく収めどころを見つけられていない。まったく理解できない訳ではない。そう言いたくなる背景が存在することは分かる。分かるけれども、でもなんだか違和感がある。これは、登場人物の誰かの叫びではなく、つまり、フィクション内の誰かの叫びではなくて、現実の世界の誰かの叫びなのではないか、と思ってしまった。

難しいことを考えず、ただエンタメ映画として観ても十分に面白い。その一方で、バリバリの社会派の映画としても骨太で、その融合の仕方が見事だと感じました。600ページを超える原作、原発という複雑なテーマを2時間ちょっとの物語に収めるのは相当に困難だったでしょうが、切り詰めすぎて窮屈過ぎることもなく、非常に見応えのある、濃い映画だと感じました。是非観てください。全日本人が見るべき映画かもしれません。

サポートいただけると励みになります!