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【本】古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。


本書は、東京大学の大学院に在籍中の学生であり、友人と会社を経営する経営者であり、かつ若手社会学者として今最も注目されている著者による、「若者論」です。


とはいえ、いわゆる「若者論」のような、今の若者ってこうだよね、昔と違ってこんな風だよね、というようなことだけが書かれている作品ではありません。本書は、「若者」というのが日本の歴史上いつ生まれ、これまでに様々に主張された「若者論」を分析し類型化し、「日本」という国がどのように成り立ちかつそれがどのように崩壊しつつあるのか示すというような、「若者」を扱うことで「日本」という国や社会、あるいは歴史について考察している、そんな作品になっています。


そもそも著者は、本書の中で「若者」を定義しない。ざっくりとこういう感じの対象だと考えているけれども、みたいな表記はちらほら出てくるけど、明確に「若者」を定義することはない。その理由は、最後の方で明らかになる。つまり、今の日本は「一億総若者化時代」であるためにどの世代にも「若者」は存在するし、また20代前後の人たちを「若者」という世代で一括りにしようにも、今の時代「若者」の幅が廣すぎて一枚岩では捉えられないのだ、というようなことが書かれる。そういう意味で本書は、単純な「若者論」ではない。


章毎にざっくりと内容を追っていこうと思います。


第一章は「「若者」の誕生と終焉」。この章では、「若者」という立ち位置がどのような歴史的経緯で生み出され、またその「若者」に対してどのような「若者論」が提示されてきたのかを追っていくことになる。


かつて日本では、世代で人を区別することが出来るなどと想像も出来なかった時代があった。なにせ、「農民」と「武士」は世代が同じだろうとその生き方はまるで違ったからだ。そういう意味で、世代によって人間を一括りにして語るというのは、実は歴史が浅いことだ。


本書では、戦争によって人々がある種の平等状態に置かれたことがきっかけで、「若者論」を含む「世代論」が可能になった、と書かれている。


これまでの「若者論」の類型化は非常に面白い。何故なら、今(2012年現在)で言われている様々な若者に対する言説は、もう何度も繰り返されている「若者論」の中に散見されるからだ。時代によって若者が変わらないのだ、という見方も当然できる。でも本書では、「自分が年をとって世の中についていけなくなっただけなのに、それを世代が移り変わったせいだと思ってしまう」ことが、「若者論」がいつの時代も存在し、かつ同じような内容が繰り返されていく主因ではないか、と指摘していて面白い。


第二章は「ムラムラする若者たち」。この「ムラムラ」には、「ムラムラする」という「ムラムラ」と、「村々」という意味の「ムラムラ」という二つの意味が組み合わさっている。


様々な統計によると、若者にとって、社会保障や雇用などで様々な世代間格差の存在するこの日本において、若者の幸福度は実に高いらしい。それを様々なデータを見ることで確認していくとともに、同時に、現在若者に対して言われている様々な言説についても、データで確認しようとする。


それら様々なデータから、今の若者は、「社会に対して何かしたい」と感じているのに「実際に行動に移すことは少なく」、とにかく「仲間がいれば楽しい」と思っている、ということになる。


これを著者は「ムラムラする若者」と呼ぶ。何かしたいと思っている「ムラムラ」と、仲間という小さな世界の中で満足する「村々」が組み合わさっているという。


第三章は「崩壊する「日本」?」。この章では、人類がここ数百年の間に発明したものの中で最大の仕掛けの一つに「ナショナリズム」を挙げ、「国家」という仕掛けが衰退していく過程と、ワールドカップの熱狂に見る若者のナショナリズム(めいたもの)を追っていく。


第四章は「「日本」のために立ち上がる若者たち」。この章では、デモやボランティアなど、実際に若者が、自分の身の回りのこと(「村々」のこと)ではなく、社会全体のために行動している(「ムラムラ」の衝動に動かされて)事例を取り上げながら、「ムラムラする」若者たちの姿を、実際にデモなどの現場で色んな若者に話を聞くことで描き出そうとする。彼らは「ムラムラ」して行動に起こすが、結局その行動の場が「居心地の好い居場所」になってしまい、それによって承認の欲求が満たされてしまうために、当初の目的が「冷却」されてしまう、という、結局「村々」してしまう若者の姿を描く。


第五章は「東日本大震災と「想定内」の若者たち」。この章では、東日本大震災によって立ち上がった多くの若者の声を拾いつつ、震災が「日本」という国に、そして「若者」に与えた影響について考察する。


第六章は「絶望の国の幸福な若者たち」。最終章であるこの章では、結局若者が何故今幸福なのかを、それまでの話を総括するような形で考察する。社会全体が若者にとって辛い環境であるにも関わらず若者が幸福なのは、世代間格差やなんやかんやの問題は、結局「今」の問題ではないからだ。彼らにとって「今」の問題は、自分の身の周りの小さな世界から「承認」されるかどうかである。そして今の世の中は、かつてに比べて、様々な形で「承認」の場が増えた。ツイッターなどのSNSやニコニコ動画など、小さな世界の中で「承認」が得られる環境は多い。そういう「村々」している中でなら、格差のことなど問題にならないし、そういう小さな世界の中で、ナンバーワンを目指すわけではない生き方を選択している若者は、なんだかんだいって幸せだよね、という感じです。


そして巻末に、俳優の佐藤健との対談が収録されています。龍馬伝に出ていた頃のインタビューで、「生まれるなら幕末ではなくて絶対に現代がいい」という主張をしていたのを著者が見かけて興味を持ち、この対談が実現したとか。この対談を読んで僕は、佐藤健にかなり好感を持ちました。


というような感じの内容です。


僕はこの著者が結構好きなのだけど、本書もやっぱり面白かったです。
僕はこの著者のスタンスが結構好きなんだと思うんですね。例えば著者は、まえがきでこういうことを書いちゃう。

『研究者ぶって色々とこ難しそうな話をすることのあるかも知れないが、そういう風に書いてある箇所こそ疑って読んでいただきたいと思いう。僕を含めて、研究者というのは議論に自信が持てない箇所こそ、曖昧に何回に書いたりするものだから。』

またこんなことも。

『さらに補章として、俳優の佐藤健さんとの対談を収録した。佐藤さんのネームバリューを考えると、実はこの補章こそが、この本の本章であると言っても過言ではない。』

皮肉っぽいとか、謙遜が過ぎるとか、まあ色んな感想を持つ人はきっといるんだろうけど、僕はこういうのは「正直だなぁ」って思うし、好きです。作中でも、本当にそう思ってたとしても僕だったらちょっと書けないなぁ、というようなことをサラっと書いてたりとかして、そういう素直なところが好きなんだろうなぁ、という感じがします。人を馬鹿にしたような表現もするし、人によっては不謹慎だと捉えられかねないような文章もあったりするんで、好き嫌いはそれなりに分かれるだろうけど、僕自身はこういう、オープンな感じというか、無理してないというか、そういうスタンスは結構好きだったりします。


本書は、「若者」という軸を用意している、という共通項があるだけで、各章で結構論点が色々出てくるんで、なかなか感想を書きづらいなぁ、という感じもするんだけど、やっぱり本作中で一番面白いのは、現実の若者に関する描写と、それらに対する著者の分析でしょう。


本書では、フィールドワークと称して、ワールドカップ時の渋谷やデモ行進の現場など、著者が色んなところに出向いて、そこにいる色んなタイプの若者に話を聞いている。本書に出てくる様々な若者に肉声を読んでいるだけで、あぁこの人達をひとまとめにした「若者論」なんてまず無理だろうな、という感じにさせてくれる程、色んな若者が登場します。


もちろん、著者にしたって、自分の書く本の内容に合う若者の話を優先的に登場させているでしょう。それは仕方ないことです。作中の記述にまったく合わない若者を、多様性を示したいというだけの理由で登場させるのはなかなか厳しい。だから本書に出てくる若者も、ある種のバイアスが掛かっているわけなんだけど、まあだとすればもっと多様な若者がいると想像できるわけで、ますます「若者論」は難しい。


ただ、多様性があるとはいえ、やはり傾向はある。本書ではそれを主に、データから読み取る。データと言っても様々だ。国が発表しているちゃんとしたデータもあれば、浜崎あゆみや西野カナの曲に出てくる歌詞の話もある。新聞記事中で「若者」という言葉が使われている頻度をグラフにしたものもある。とにかく、色んなところからデータを持ってきて、著者は色んなことを読み解こうとする。その過程で、著者の推測も交えつつ、大人が盛んに「若者は可哀想」と喧伝してくれるこの世の中で、何故当の若者が幸せを感じているのか、を追っていく。


実際本書で描かれていることは、僕も分からなくもない。僕は、特別何かに「ムラムラ」している自覚はないし、小さな世界で「村々」することは実は不得意だったりするのだけど、でも、今のこの日本で「幸せか?」と聞かれれば、「まあ幸せかな」と答えるだろう。本書でも話に出てくるけど、「不安はあるか?」と聞かれれば「不安はある」と答えるだろう。幸せだけど不安がある。今の若者に共通する心情だろう。


「ムラムラ」や「村々」について、僕個人の実感としてはそこまで強く共感は出来ないのだけど、でも周囲の人や、あるいは世間一般の若者へのイメージ(という一枚岩は存在しない、と本書で指摘されているので、「僕の頭の中にある現代の若者像」とでも言い換えようか)から、「ムラムラ」や「村々」が妥当な分析なんだろうなぁ、と思うことはある。


やっぱり僕も、「何かあった時の団結力(ムラムラ)」は、今の若者って凄いなぁって思うし(僕は、自分の意識的には、それを遠くから眺めているつもりなんだろうけど、でも実際は自分もそれに取り込まれているんだろうな、きっと)、政治とか経済とかには興味がないけど、友達との約束を破ると嫌われちゃうかも、みたいな、小さな世界の中での承認を重視して生きていく感じも伝わってくる。


大事なのは、その「ムラムラ」や「村々」だとどうして幸せなのか、ということだ。その辺についても書かれていて、僕の解釈が間違っていなければこうだ。


つまり、自分の周囲の小さな世界以外の出来事は、自分にはとても遠い。ものすごいお金持ちが上の世代にいても、それは「自分とは関係のない世界」の出来事だ。テレビの向こうの世界のようなもので、自分の周りの小さな世界とは地続きではない。そういう世界は、憧れはするけど、嫉妬の対象にはならない。自分の周囲の小さな世界だけ見ていれば、そこに格差はないし、そもそも仲間がいるから楽しい。だから若者は幸せだ、ということになる。


その話に関係して凄く面白かったのが、中国の話だ。中国は、農村と都市では戸籍がまったく別なようで、農村部出身の人は都市には住めない。彼らは都市に出稼ぎにやってきて、低賃金で働かされている。では、そんな彼らの幸福度はというと、これが異常に高い。まさに日本の若者と同じような状況なのだ。


若者の行動として、本書ではデモやボランティアの話が描かれるのだけど、それを見る著者の「冷めた目線」が、僕自身は結構好きだ。別に、非難しているわけではない。悪いと思っているわけでもない。けど、デモやボランティアに身を投じる若者たちへの「共感できなさ」みたいなものが凄く透けて見える感じがして、結構好き。たぶん著者は、そういう「熱い」感じが好きじゃないんだろう。少なくとも、対外的なポーズとしてそう振舞っている。僕自身もそうだから、なんとなくわかるような気もする。


こういうように、本書の「若者論」としての面白さは、それを語る著者自身も「若者」である、という点も大きい。「若者」というものを「若者論」として捉えようと外側から見ようとする一方で、自身がまだその「若者」という枠の中にいることに自覚的でもある。本書では、かつて書かれた様々な若者論について触れられているが、その多くはやはり、上の世代が若者世代に何か言う、という形での若者論だった。若者が若者論をこうして本の形で語るというのは、もちろんあったかもしれないけど、珍しいのではないかなと思う。


江戸時代までは「日本人」はいなかった、とか、「ナショナリズム」は近代の大発明の一つなど、普段「日本」という国に生きていると、あまりに馴染んでいるが故に違和感に気づきにくい考え方について本書では気づかせてくれたりするので面白い。特に、「日本」という国を近代化するために「日本人」というものを発明し、様々なラッキーによって「経済成長が続けば」という条件付きで保たれていた「日本」という国家が、経済成長が止まったが故に国家として緩やかに崩壊しつつあるのでは、という話は、普段考えることがない話だったので面白かった。


本書を「若者論」として提示してしまうと興味が持てない人も出てくるかもしれないけど、「若者」と軸を中心に「日本」を考える本、と書くとちょっとは興味を持ってもらえたりするかな。この絶望的な国に生きる若者が何故幸福なのか、という点を主題としつつ、縦横無尽に様々な論点を考察していく本書は、なかなか読み応えがあると思います。巻末の佐藤健との対談では、借り物ではない自分の言葉で語る佐藤健にかなり好感を持ちました。是非読んでみてください。


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