【映画】「散歩する侵略者」感想・レビュー・解説

「狂気」の物語ではない。
「狂気」を受け入れる『狂気』の物語だ。

ごく普通にイメージした場合、物語の中で「狂気」が描かれる時は、その「狂気」が「普通」といかに対立し、いかに狂乱を引き起こすのか、という点が物語の核になるはずだ、と思う。
しかしこの映画は、そういう風には作られていない。「狂気」が目の前に現れた時、その「狂気」を受け入れていく『狂気』を描き出すのだ。もちろん、「狂気」がいかに混乱を巻き起こすのか、という部分も描かれはする。しかしそれは、物語の背景でしかない。

どの本に書いてあったのか忘れてしまったので正確には記述できないが、かつてこんな話を読んだことがある。とある女性が、世界の終末のサインを受け取った、助かりたい人は皆で祈りを捧げましょう、というようなことを言い始めた。それに賛同する人が増え始めたことを知ったとある心理学者が、人間の認知の変化を知る興味深い実例だとしてその会に潜り込んだ。心理学者は、彼らの教えを信じているフリをして観察を続けた。その心理学者の興味はただ一点。女性が唱えた終末の日に世界が滅亡しなかった場合、その話を信じていた人たちはその状況をどう捉えるのか、である。
女性が指定した時刻が過ぎた。何も起こらない。するとその場にいた人たちは口々に、「自分たちの祈りが通じたのだ」と解釈した。自分たちの祈りのお陰で、終末を回避できたのだ、と。人間は、自分が信じるモノを信じる状況を生み出すために解釈や認知の方に改変を加えることがあるのだ、という実例として取り上げられていた記憶がある。

鳴海と桜井。この二人の目の前にも、「狂気」が現れた。人間の形をした「狂気」が。彼らは、その「狂気」と対立することも出来た。「普通」側にいる自分と遠く離れたモノとして受け取ることも出来た。立場としてはそうだ。しかし彼らはどちらも、その「狂気」を受け入れることにした。

その理由は、それぞれ違う。週刊誌の記者である桜井は、初めは興味本位から「狂気」を受け入れた。その「狂気」がホンモノであるのかという検証をし続けながら、「狂気」と関わり続け、取材をし続ける。そういうスタンスだった。しかし、少しずつ彼は変化していくように見える。どう変化したのか、それはなかなか捉えがたい。しかしその変化は、「狂気」と関わる理由そのものと関係してくるはずだ。外側からでは桜井の内面の変化を追うことは難しいが、「狂気」がもたらす未来に興味を持ってしまった、ということかもしれない。

鳴海はまったく別の理由で「狂気」を受け入れる。いや、彼女は最初、「狂気」を受け入れてはいなかった。正確に言えば、最後の最後まで「狂気」を受け入れなかったかもしれない。彼女が受け入れたのは、「狂気」ではなく「夫」だ、とも言える。愛する夫、いや、愛していたはずの夫、という方が正確だろうか。
難しいのは、「狂気」と「夫」がイコールであることだ。どちらかだけを受け入れることは出来ない。どちらも受け入れるか、どちらも排除するか。鳴海には、その二択しか存在しなかった。そして彼女は、「狂気」ごと「夫」を受け入れるという選択へと傾いていく。

物語の中で「狂気」が選ばれる場合、普通は「狂気」と対立する展開になる、ということは書いた。この映画ではそれとは対極的に、「狂気」を受け入れる(その『狂気』を描く)展開になる。そして、「狂気」と対峙するもう一つのスタンスがある。それが、無視するという在り方だ。

本書が異質であるのは、「狂気」を目にしているはずの人々の姿だ。彼らは、そこに「狂気」など存在していないかのように振る舞う。「狂気」を認識して対立したり逃げ惑ったりするのではなく、目の前にある「狂気」がなんでもないものであるかのように振る舞っている。そう感じさせるシーンが結構ある。

そしてそのことが、妙なリアルさを生み出してもいる。現代人は、「異質なもの」に慣れていない。共感をベースにした同質性の高い人たちとすぐに繋がれる世の中になってしまったが故に、自分たちと価値観の違う人たちと関わり合いを持たなくとも生きていける世の中になってしまった。だからこそ、「異質なもの」に対する反応速度が鈍くなっていると僕は感じる。あまりにも「異質なもの」を排除できてしまうために、自分の周りに「異質なもの」があるのだ、という前提を知らず知らずの内に手放してしまえる。だから、「異質なもの」と直面した時の反応が遅れるのだと思う。

この映画を見ていると、現代人のそういう在り方がうまく切り取られているように感じられた。「狂気」を受け入れる、という選択をした鳴海と桜井は、むしろ感度が高いと言えるだろう。それは、異常な事態に対しての反応が鈍い者たちが背景に描かれるからこそ、余計強調されるように感じられる。

また、作中の人々が「狂気」に対して反応が遅れてしまうもう一つの理由がある。「狂気」が人間の形をしている、ということだ。
「狂気」がもっと違う形で目の前に現れれば、もっと機敏に反応できるだろう。しかし、人間の形をしているが故に、躊躇する。目の前の存在が「狂気」であると認めることに怖気づく。

この映画で描かれているのとまったく同じことが起こる可能性はほとんどないだろう。しかし、人間の形をしているから、あるいは別の理由でもいいが、そういう分かりやすい理由によって受容・拒絶を判断することの怖さをこの映画は伝えているのだと思う。ちょっと違うから排除する、見た目が同じだから受け入れる―そういうやり方ではたどり着けない地点にあるもの。そういうものを、この映画では描き出しているのだ、と感じる。

例えば、「愛」とか。

内容に入ろうと思います。
イラストレーターの加瀬鳴海は、変わり果てた夫真治の姿に呆然とする。会話がまともに通じず、それどころかちゃんと立って歩けもしない。記憶もどうやら失われてる部分が多いらしい。真治の不倫疑惑を追求しても、何を言われているのか分からない、というような表情をする。状況が理解できないまま、あちこち歩きまわったり、謎めいた言動を取る真治に、鳴海はイライラを募らせていく。
ある街で、残虐な一家殺人事件が起こる。生き残ったのは、立花あきらという女子高生のみのようだが、現在行方は分からなくなっている。その事件の取材をすることになった、週刊誌記者の桜井は、現場付近で不思議な男と出会う。天野と名乗ったその男は、自分が宇宙人で地球を侵略しにきた、と語る。そして桜井に、立花あきらを一緒に探し、同時に自分のガイドになってくれ、と頼む。成り行きに任せるようにして、桜井はその話を受け入れる。
半信半疑のまま天野に付き従う桜井だが、次第に彼らの実態が明らかになっていく。どうやら彼らは、人類の「概念」を集めているのだ、という。言葉に便りすぎる人類から、言葉に依存しない、概念を下支えするイメージのようなものを吸い取る。すると吸い取られた者は、その概念を失ってしまう。所有の概念を奪われた者はすべてを手放し、自分と他人の概念を奪われた者は世の中すべての人間を私だと思い込む。
彼らの侵略の計画を聞きながら、彼らの手伝いに従事する桜井。そして、夫の変化に苛立ちながら、自分が愛した人をなんとか取り戻したいと願う鳴海。動機はまるで違うが、結果的に侵略者という「狂気」を受け入れる『狂気』に浸ることになった彼らの奮闘と絶望が描かれる。
というような話です。

個人的には結構好きな作品でした。全体的には、ある種のシュールさみたいなものが漂うし、状況がイマイチ理解できない部分があったりするしと、するっと受け入れられる映画ではないのだけど、「狂気」を受け入れる『狂気』、というものに焦点が当てられることで人間の葛藤が引き出される、という展開は面白いと思いました。

何よりも、鳴海(長澤まさみ)が非常に良かった。鳴海の行動原理は、当初上手く掴めないでいた。それは、真治が侵略者となる以前の夫婦の話がまったく描かれないからだ。彼女たちがどんな夫婦であったのか、判断する材料はない。そういう意味で僕ら観客は、侵略者として戻ってきた真治と同じ視点から鳴海を見ている、とも言えるだろうと思う。

鳴海は、真治に「夫婦だろ」と言われて、「そんなのとっくに終わってるよ」と返す。彼らの関係は基本的には破綻していたのだ。その原因は、真治がしたらしい不倫にあるのだろう。真治に対する鳴海の態度は、やはり不信感混じりのものとなる。とはいえ、夫を呼ぶ呼び方は「しんちゃん」であるし、真治の様々な奇行に対しても手を差し伸べていく。そこには、同じ家に住んでいるから、という理由ではない何かが見えるような気がする。

そして次第に気づくようになっていく。鳴海が、夫のことを未だに愛しているのだ、ということを。そしてそのことが、物語を支える一つのベースとなっていく。鳴海が持つその感情が、「狂気」を受け入れる背景にも、事態の展開を左右する要素にもなっていく。この点が、物語的に凄く良く出来ているな、と感じました。

地球を侵略するためにやってくる宇宙人たちの振る舞いも、実に面白いと思いました。姿形は人類そのものなのだけど、中身が乗っ取られていて別人格のようになっている。そんな彼らは人類の持つ概念を集めるために動き回るのだけど、そうやって概念を集めても、掴みきれないことがある。例えば、彼ら宇宙人は恐らく人類の肉体に当たるものを持っていないのだと思う。だからこそ、人類の身体の脆さみたいなものはなかなか実感できない。そういう、人類社会に対する知識が欠如しているが故の様々なズレた言動みたいなものがうまく表現されているような感じがして面白かった。

桜井(長谷川博己)も、「狂気」を受け入れる側の人間だが、捉えきれない謎めいた雰囲気が滲み出ていたのが良かったと思う。桜井の言動は正直、普通には理解しがたいと思う。どう見ても「宇宙人側」の立場として行動しているようにしか思えないからだ。桜井自身にも、自分が何をしようとしているのかよくわかっていないのかもしれない。いずれにしても、桜井という捉えがたい言動をする人物を、そのよく分からなさを滲ませながら演じている部分も良かったと思う。

細かな部分まで理解できているわけではないが(例えば、途中から桜井らを追いかけ始める組織が何者なのか、ちゃんとは分からない)、それも物語全体の不穏さを高める要素だと思うし、「狂気」を受け入れる『狂気』という、一段レベルの高い『狂気』が描かれていながらも、それが僕らの日常からかけ離れたものであると感じさせないのは、役者の高い演技の賜物なのかな、と思う。この映画を見て何を感じるのかは様々だろうが、全編に通じるこの不穏さみたいなものは、非常に独特で印象的ではないかと思う。

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