【映画】「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」感想・レビュー・解説

200年ほど前、アメリカ南部では奴隷制度が当然のものとしてあった。誰もが、奴隷制度は正しいものだと考えていた。奴隷には人権などないし、モノと同じように扱っていいのだ、と考えていた。

今そんなことを言う人間がいたら、頭がおかしいと思われるだろう。

しかし同じようなことは、色んな場所で起こっている。

例えば経営者の中には、従業員を死ぬほどこき使って働かせてもよい、と考えている人がいる。そういう会社はブラック企業と呼ばれる。あるいは、LGBTの人たちはまだまだ世の中にすんなりと受け入れられているとは言えない。しかしこういう問題はまだ、僕らが同時代に「問題」として認識出来ている、という意味で、200年前の奴隷制度とはちょっと違うとも言えるだろうか。

男女の差別は、ありとあらゆる差別の中で、最も長く続いているものではないかと思う。

女性と言うのは、人類の長い長い歴史の中で、常に立場が低かった。男に比べて力が弱いからなのか、あるいは人間の子どもは他の動物と比べて相当未熟な状態で生まれてくるので、子育てには庇護者が絶対的に必要だったからなのか、理由はよく分からないが、とにかく長い間、男の方が優位であると考えられていた。それを、生物学的な差である、という考えも当たり前に存在した。

現代は恐らく、過去どんな時代よりも、女性が権利を獲得できていることだろう。しかしそれでも、男女が平等であるとはまだまだ言えるレベルではないだろう。特に日本は結構酷い。国際的な基準だと確か、男女平等のレベルは相当低かったはずだ。日本の政治家は男ばかりだ。まだまだ変わるのには時間が掛かるだろう。

この映画は、1972年の物語だ。まだ半世紀も経っていない。しかし、この当時の状況は、まだまだ平等とは言い難い現在と比べても恐ろしいぐらい酷かった。どこからそう感じるのか。それは、マスコミなどの公の場で、「男性の方が優位である」「寝室と台所にいる女性は好きだ」というような発言をしても“許される社会”だった、ということからも明らかだろう。現在では、先ほどのような発言をしたら一発でアウトだ。政治家も芸能人も吊るし上げられるだろう。だから、本心ではどう思っているか分からないが、皆表向きそういう発言はしない。しかし1972年当時はまだ、そういう発言が当たり前になされていた。その事実だけでも、女性にとっていかに窮屈な時代だったかが分かるだろう。

そんな時代に、女性の権利を賭けたあるテニスの試合が行われた。負ければ、女性は相変わらず低い立場に甘んじたままになってしまう―。そんなとてつもない重圧の中で戦った、一人の女性の物語だ。


ビリー・ジーン・キングは、女子テニス選手の中でずば抜けた戦績を誇り、累計の獲得賞金学は10万ドルを超えた。しかし、女性と男性では、優勝賞金に圧倒的な差があった。男子が1万2000ドルに対して、女子は1500ドル。8倍もの差は、「生物学的な差だ」と説明される。しかし、納得の出来ない彼女は、全米テニス協会を脱退し、新たに女子テニス協会を設立、賛同した女子テニス選手らと共に、自らスポンサーを探し、全米ツアーを敢行し、女子テニスの地位向上に努めることにした。
その頃、賭け事が大好きで妻に家から追い出されたボビー・リックスという男が、何やら画策をしていた。彼はかつてグランドスラムを制し、またテニスの殿堂入りも果たした、男子テニスのトップ選手だった。55歳となった今は、妻の父親が経営する会社に籍を置きながら、仲間と賭け事に興じるなどダラダラした生活を送っていた。
彼が思いついたのは、女子トップ選手との対戦だ。55歳とはいえ、女子トップ選手に負ける気はしない。なんと言っても女は「試合は出来ても、プレッシャーに弱い」のだ。しかし対戦すれば全米中が注目するだろう。賭け金は10万ドル。
こうして、史上稀に見る「男女の対戦(バトル・オブ・ザ・セクシーズ)」が幕を開けることになった!
というような話です。

実際には物語的には色々とあるのだけど、その辺りのことまで含めるとややこしいのでとりあえず内容紹介からは省いてみました。

こんな試合があったことなんてまったく知らなかったから、正直驚きました。そして、僕が生まれる前の世界はこれほどまでに酷かったのかと、そういう意味でも改めて驚かされました。

この物語は、ビリー・ジーン・キングを中心に据えているので、彼女の個人的なあれこれも描かれていて、ストーリー的にはそういう部分も興味深いのだけど、やはりどうしてもこの映画について語るとすれば、ボビー・リックスとの対戦に焦点を当てたくなる。

僕は映画を観ながら、ちょっと見誤っている部分があった。それは、「ボビー・リックスには、負けてもリスクはないじゃないか」と思っていたのだ。ビリー・ジーン・キングの方は、確かに勝てば英雄だが、負ければ女性の権利の獲得という大目標が一段と遠のくことになってしまう。なにせ全米で生中継され、会場ではお祭り騒ぎのような状態なのだ。負けてしまえば、「やっぱり女はダメだ」ということが、全米中に伝わってしまう。それはそうだ。当時はマスコミだって当然男が権力を握っていただろうから、どれほど彼女が健闘したところで、負けてしまえば「やっぱり男の方が優れているんだ」と騒ぎ立てるだろう。彼女としてみたら、善戦では意味がないのだ。どうしたって勝つしかない。そのプレッシャーは凄まじいものがある、と思いながら僕は観ていた。


一方、僕がボビー・リックスにリスクがないと判断していたのは、ボビー・リックスが自身のことを「男性至上主義」とアピールするのは、盛り上げるためにやっている一種のパフォーマンスだ、と思っていたからだ。もちろん、全米テニス協会のトップのように、本当に男の方が優れていると信じ、それを公言して憚らないような男もいる。ただ、ボビー・リックスは違うんだと思っていたし、何なら僕は、社会全体の風潮としても、「男性至上主義」というのは少数派だと思っていたのだ(何故そう思っていたのか、説明は出来ないが)。僕の解釈通りだとすれば、ボビー・リックスにリスクはないことになるだろう。別に自身が本当に「男性至上主義」なわけではないのだし、また「男性至上主義」が少数派だとすれば、彼らの期待だって重圧と言うほど大きくはないだろう、と思うからだ。

しかし、試合が始まってから、その認識を改めざるを得なくなった。まず、テレビの生放送を通じて、出演者らが男が優位であるような発言をする。また、テレビを観ている男の多くも、当然男が勝つと思っているし、そうでなければならないと思っている。また、予想した通りボビー・リックスは負けるのだが、その後で落ち込んでいるシーンが描かれるのだ。それを観て僕は、そうか彼の「男性至上主義」発言は、パフォーマンスではなかったのか、と理解したのだ。だから僕は、映画を最後まで観てようやく、その当時の「男性至上主義」という考えがどれほど根強かったのかを理解したと言える。

少し前に、どこかの医大が、女子学生の入試の点数を一律に下げていたと報じられ、大問題になった。特にそれは欧米でも衝撃と共に報じられたようだ。そりゃあそうだろう、と僕は思うが、やはり上の世代(っていうか、オジサンたち)には理解できないみたいだ。はっきりと、時代は大きく変わっている。世界はますます、「女性である」ということがマイナスにならない環境を提供するようになっている。ビリー・ジーン・キングはその後も、ウーマンリブ活動の旗手として精力的に活動を続けたという。そういう女性たちの闘いがあって、こうやって少しずつ時代は変わっていっている。

よく聞く話だが、就職活動において、公平に採点すると女性ばかりになってしまうから男を少しは残しておいてくれと人事に言われる、何ていう話がある。まあそうだろう、もし男と女が同じ土俵で戦えば、大抵女性には敵わないだろうと僕も思う。1000年後ぐらいには、男女の力関係が逆転していてもおかしくないんじゃないかと思う。しかしまずは、女性が男と同等の生き方が出来るように早くなって欲しい。映画を観ながらずっと感じていたことは、「男って恥ずかしい生きものだな」ということだ。これ以上、自分を恥ずかしいと思いたくはない。

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