【映画】「サウンド・オブ・メタル~聞こえるということ~」感想・レビュー・解説

以前、「ダイアログ・イン・サイレンス」というイベントに参加したことがある。音を完全に遮断するヘッドセットを装着することで聴覚障害者の世界を体験しよう、というものだ。もともとは「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という視覚障害者の世界を体感するが最初であり、いずれこちらも行こうと思っている。

「ダイアログ・イン・サイレンス」に行ったのは結構前なので、正直その時のことを正確には覚えていないのだが、しかしやはり「聞こえない」という世界はとても不思議な感覚だった。僕らが普段当たり前にしている行為が、「耳が聞こえない」という状態ではまったく意味をなさないのだ、ということを、言葉や映像ではなく、自らの体感として知ることができたのは、やはり興味深いものだった。

この映画の中で、非常に印象的だった言葉がある。聴覚障害を患う者たちのケアを行う施設のリーダーのような人物のものだ。

【ここでの信念は、君も分かっているだろう。
聴覚障害はハンデではなく、治すべきものでもない、と。
その信念に沿って、ここは運営されている。】

このセリフは、映画の後半で出てくるので、この言葉を聞いて「あぁ、なるほど、そういう場所なのか」と僕は理解できた。

ハンデではなく、治すべきものでもないということは、要するに「個性」だということだ。自分に新しい「個性」が加わったのだと価値観を変容させられるのか、ということが、この映画の根底にあるのだ、と理解した。

確かに、それが「障害」であるのか「個性」であるのかは、なんとなくの判断によって決まっているように思う。

「他人と違う」ということであれば、太っているとか痩せている、髪の色がもともと茶色、胸が大きい小さい、足が速い遅い、酒が飲める飲めないなど色々ある。しかし、今挙げたものはどれも、他人と違っていても「障害」と呼ばれることはない。

一方、目が見えない、耳が聴こえない、手足が欠損しているなどは「障害」と呼ばれる。何故なのか考えてみると、それは、「『普通の生活』に支障を来たすから」ということになるだろう。

しかしじゃあ、「普通の生活」ってなんだ、ということになる。いわゆる「健常者」がしている生活が「普通」で、そうではない生活が「普通ではない」と言える根拠はどこにあるのだろう?

そう感じるのは、この映画で描かれる「聴覚障害者のコミュニティ」が、とても自然に形成されているように感じられるからだ。もちろん、「生活を行う上で不自由なこと」はそれなりにあるだろうが、しかしそれは、太っているとか足が遅いとか酒が飲めないみたいな人も感じることがあるはずだ。あるいは、目には見えないが、心に傷を抱えているとか、性格的にしんどさを感じてしまうような人もいるし、身体は健常だとしても不自由さを感じてしまうだろう。

そんな風に考えた時、「障害」と「個性」を隔てる最大の要因は、「健常者との協働」なのだと感じた。ここには「意思の疎通」という意味での「コミュニケーション」も含まれる。

そしてこの映画で描かれるのはまさに、「聴覚障害者のコミュニティで生きるか、健常者のコミュニティで生きるか」という選択なのだ。

健常者が当たり前にできることが、「障害」を持つことでできなくなる。その「障害」は、同じ障害を持つ者同士の間では「個性」でしかないが、健常者との関わりが生まれる時には「障害」として立ち現れる。そこに葛藤が生まれる。

以前、自閉症の東田直樹の言葉として、「自閉症である人生しか知らないから、もし生まれ変わってもまた自閉症を選ぶかも」みたいなのを読んだことがある(正確な表現ではないが大体そんな感じだったはず)。確かに、先天的に何らかの「障害」を持つ場合、そういう自分しか知らないわけだから、「個性」と捉えるための壁は低いかもしれない。

しかしこの映画では、もともと耳が聴こえるのに徐々に聴力が失われていく主人公が描かれる。しかも彼の職業はメタルバンドのドラマーだ。聴力の喪失は致命的と言っていい。

彼が、聴覚障害者のコミュニティで生きていく決断をするのなら、聴覚障害者としてそれなりに良い生活が送れるだろう。しかし彼は、「耳が聴こえる世界」を諦めたくなかった。聴覚障害者のコミュニティを拒絶したいという気持ちよりは、恐らく、聴こえる世界に戻りたいという強い気持ちが溢れ出してしまうのだと思う。

最終的な彼の決断についてはここでは触れないが、普段なら考える「自分だったらどうするだろう?」という思考が、ちょっと今回は上手く出来ないでいる。聴覚にしても視覚にしても、それ以外の何かであっても、やはりもともとあったものが失われる辛さを今の僕が理解しきれるとは思えないし、そんな状態の自分が、「自分だったらどうするだろう?」と考えるとは、やはりちょっと違うような気がしてしまうからだ。

聴覚を失うかどうかは分からないが、私たちは誰もが老いていくし、若い頃に出来たことが出来なくなる時期が必ずやってくる。老いというのは誰もが否応無しに経験するものであり、「障害を負う」というのとはまた感覚は違ってくるだろうが、それでも、「出来たはずのことが出来なくなる自分」をどう受け入れていくかという問題は相似形を成すのではないかと思う。

今の当たり前は、いずれ当たり前ではなくなるのだと、誰もが実感させられる映画でもあると思う。

内容に入ろうと思います。
ボーカルである恋人・ルーと共にメタルバンドを組み、自身はドラムを叩くルーベンは、車に生活道具一式を積み込み、各地を転々としながらツアーで生計を立てている。ルーの腕にはリストカットの痕があり、ルーベンもかつてはヘロイン中毒だった。2人は、お互いの存在によって立ち直り、単なる恋人、単なるバンド仲間というだけではない絆で結ばれている。
ある日ルーベンは、ライブリハの直前に耳に違和感を覚えた。その日のリハやライブはその状態でこなしたが、耳鳴りや聴こえ方の変調に耐えきれず薬局に行くが、既に薬剤師との会話がほとんど成立しないほど、耳が聴こえなくなっていた。
彼の耳は、急速に聴力が衰えており、医師からは、僅かに残った聴力でなんとかやっていくしかないと諭される。
絶望するルーベンと、困惑するルーだが、知人の伝手を辿り、聴覚障害者のコミュニティを紹介してもらえた。しかしそこで生活するとしたら、ルーベンが1人で残らねばならず、携帯電話も没収されルーとさえ連絡を取れなくなる、と言われてしまう。そんな状態には耐えられないと拒絶するルーベンだが、あなたには支援が必要だと強硬に主張するルーに根負けし、ルーベンは1人コミュニティでの生活をスタートさせることになる。
当然、手話さえ分からないまま入所となり、しばらくは困惑したままの日々だったが……。
というような話です。

この映画は、ストーリー云々というよりもまず、やはり音響的な部分が非常に特徴的だと思う。場面場面で「ルーベンの耳にどんな風に音が聴こえているのか」という状態の音響が再現されるのだが、その違和感のある音を聴きながら、確かに「他人がどんな音を聴いているのか」は分からないよな、と感じた。

もちろん、ルーベンのような聴覚障害者がどんな風な「聴覚世界」を生きているのかは分からないが(まったく何も聴こえない、無音の世界を生きている、というなら別だが)、その感覚を少しは体感できているのではないかと思わせてくれる映画だ。

もしこの映画の音響が、実際の聴覚障害者の聴いている世界に近いのだとしたら、「まったく聴こえない方がいっそ清々しいのではないか」と感じるかもしれないなぁ、と思った。もちろんそれは、実際にそういう立場になってみないと分からないことだが、始終あんな違和感まみれの音が耳に届く生活というのも、不快でしかないのではないかと思う。

特にルーベンは音楽に携わる者であり、普通以上に聴覚に頼って生きていただろう。そういう意味では、あんな不協和音を聞かされる状況は余計にしんどいと言っていいだろうと思う。

映画を観ながら考えていたことは、「ルーベンにもし、ルーという存在がいなかったとしたら、ルーベンの決断に何か違いはあっただろうか?」ということだ。もしそこに何か違いが生まれるとするなら、その事実はある意味で、双方にとって辛いものだろうなと思う。

以前一度だけ、ちょっと耳が聴こえにくくなって焦ったことがある。突発性難聴は発症してからすぐ対処するのが大事だという知識はあったから、すぐに病院に行ったのだが、特に何もなく、今でも耳は正常に機能している。

しかし、自分がいつ難聴になるか分からないし、他の「障害」を負うことだっていくらでも考えられるだろう。

そうなった時、自分は何をどんな風に決断するのか。あらかじめ準備しておける選択ではないが、その心構えを少し抱かせてくれる作品だった。


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