【映画】「スポットライト 世紀のスクープ」感想・レビュー・解説

『神様に嫌と言えますか?』

タイムズ紙の傘下に入った、ボストンの地元紙「ボストン・グローブ紙」が、教会が何十年も隠蔽してきた暗部を暴きだした。

『教会は何でもできる。何でも』

その権力は、強大だ。

『教会は何世紀も存在している。
新聞社が勝てると?』

教区内の神父が、男女問わず子どもたちに性的虐待を加えている。それは、枢機卿も知っており、教会全体で隠蔽工作をしている。「ボストン・グローブ紙」が暴きだした真実は、衝撃的なものだった。

『奴は神父だ。従うしかない』

2002年、「ボストン・グローブ紙」がこの記事を掲載したことで、ボストン教区内で249人の神父が性的虐待に関わり、被害者は1000人以上に上ることが判明した。

『教会は人が作った組織だ。いずれ滅びる。
けど、信仰は永遠だ』

「ボストン・グローブ紙」の読者の53%はカトリック信者。記者の一人であるサーシャの祖母も、熱心に教会に通っている。

『貧しい家の子には、教会は重要だ』

教会の存在は、地域に、深く深く根付いている。

『だが、人々に教会は必要だ。
少しの悪のために多くの善は捨てられない』

真っ黒に汚れた教会であったとしても?
目の前にいるのが、子どもをレイプした鬼畜であっても?

『教会に行かなくなったのは、大した理由じゃない。
本当に、また教会に行くと思っていたんだ。いずれ、きっと行くんだと。
でも、あの手紙を読んだら、俺の中で何かが壊れた。』

例え失われるものが膨大であっても、真実は知られるべきだ。

『何も諦めてはいない。
私たちは、逃げない』

警察も、裁判所も、弁護士も、皆知っていた。新聞社でさえ、知っていた。しかし何もしなかった。

『何かあると知りながら、何もしなかった。
それも、俺達で終わりだ。』

彼らは、教会という強大な権力を向こうに回して、真実を、そして真実を確信させてくれる証拠を掴んだ。

『私たちは毎日、闇の中を手探りで歩いている。
そこに光が差すことで、我々は間違っていたとわかる』

すべてを乗り越えて、世紀のスクープは世に出る。

『私達の仕事は、こんな記事を書くことだ』


前局長の定年退職に伴って、タイムズ紙から新たな局長が送られてきた。
マーティ・バロン。
独身のユダヤ人である彼は、グローブ紙がかつて取り上げたゲーガン事件に着目する。ゲーガン神父が子どもに性的虐待をした、という記事だ。バロンはスポットライトのチームに、この事件はまだ掘り下げられていないと指摘する。
スポットライト。
グローブ紙に長く存在する特集欄だ。ネタを見つけたら二ヶ月掛けて取材をし、それから向こう一年間連載を継続する。グローブ紙の、花形だ。
教会を訴えるのか?
取材を始めたレゼンデスやサーシャらは、次第にこの闇が奥深いものだと気づく。教会は、ほんの一部の神父だけが悪いのだと思わせたがっている。しかし、実際は違う。取材を進める過程で、ボストン区内に存在するはずの、性的虐待に手を染めたと思われる神父の推定数はどんどんと膨れ上がっていく。
これは、神父ではなく、教会という組織の問題だ。
彼らは再発防止のため、教会に打撃を与えられる確実な証拠を手にするまで、粘り強く取材を続ける…。


映画を見ながら僕は、アメリカにおける教会の存在は、日本だと何に該当するだろうか、と考えていた。小さな子どもが一定数以上集まるという意味では、塾や子供会なんかも該当するだろうが、決定的に違う点が一つある。

それは、神父は神だ、ということだ。

『目をかけてもらったら有頂天だ。
神父に可愛がられて、ワナにはまるんです』

神にレイプされる。それに該当しそうな存在は、日本ではちょっと思い当たらない。

だからこそこのグローブ紙の記事は、日本人が想像するよりも遥かに壮絶でショッキングなものだったのだろうと思う。

『おふくろは舞い上がったさ。神様が来たんだからね』

神父は、神様のような扱いをされる。さらに、教会という組織は絶対的な権力を持っている。「教会は何でもできる。何でも」というのは、決して大げさではない。教会は、裁判所に提出された証拠さえ、隠すことが出来る。

被害者が声を上げないのは、当然だ。ボストンだけで、表に出ただけで1000人以上の被害者が、グローブ紙の記事掲載後に判明した。恐らく、もっといるだろう。

この映画の中では、性的虐待の被害者も何人も登場する。彼らは、何が起こっているのか分からないまま、神父の行為を受け入れざるを得なかった。例えば、ゲーガン神父が標的にしていたのは、「貧困 親不在 家庭崩壊」の子どもたち。教会にしか居場所がない子どもたちを狙っている。大人になり、性的虐待の被害者であることを隠したまま社会の中で生きている被害者たちは、まだその経験を自分の中で消化出来ていない。

しかし、そういう被害者はまだましな方なのだ。

『彼は幸運な方だ。まだ生きてる』

これ以上この点については触れられないが、恐らく悩み苦しんで自殺してしまった被害者が数多くいたのだろう。死者すら出すような闇を、教会は少なくとも30年以上に渡って隠し続けてきた。

問題は、性的虐待という部分に留まらない。教会がこの事実をいかに隠蔽してきたのか。グローブ紙の記者たちは、その点も追求していく。存在しない裁判記録、機密保持が条件に含まれた示談。その影には、教会の隠蔽工作を手助けする様々な人間の存在が浮かび上がる。

取材は困難を極める。
もちろんそれは、教会が強大な権力を持っている、ということにも起因する。彼らは、その絶対的な権力を行使して、なんだってやる。彼らに、出来ないことはない。警察だって裁判所だって弁護士だって、自分たちの都合の良いように動かせるのだ。

しかしそれ以上にグローブ紙の記者にとっては、教会が地域と密接に結びついているという点が問題になる。グローブ紙は、基本地元紙であるが故に、記者もほとんどがボストン出身だ。地元であるボストンの、地域に密着している教会を叩く。それは、そこにこれからも住み続ける者に、逡巡を与える。

『バロンは余所者だ。2年もすれば、他所へ行く。
でも、君はどこへ出て行く?』

しかしそれでも、彼らは知ってしまった真実を世に出す。それが何を破壊することになろうと。

『「この文書を記事にした場合、誰が責任を取る?」
「じゃあ、記事にしなかった場合の責任は誰が取るんだ?」』

彼らは、執念で取材を続ける。教会から圧力が掛かり、口を閉ざす者ばかり。被害者を探しだして当たるも、快く話してくれる人は多くないばかりか、放っておけと追い出される始末。開示されているはずの情報も、すんなりとは手に入らない。

そんな中で彼らは、表沙汰になっていない、性的虐待に関わった神父の名前をあぶり出すために、恐ろしく地味な作業に手を付ける。膨大な時間を掛けて、公開情報だけを頼りに、彼らは悪い神父の名前を炙りだしていく。

途中で、9.11のテロが起こる。機動力は、そちらの取材にも割かなければならない。近い内に記事になるはずだと思っていた人たちの気持ちを波立たせることにもなる。

それでも彼らはやりきった。

この映画の描かれ方が良いのは、新聞社が正義を振りかざしているようには見えないことだ。

小説や映画でマスコミが描かれる場合、特に日本ではそういう印象があるが、マスコミ人は“正義”を錦の御旗として掲げて取材を続ける。自分たちがやっていることは正義のためなのだ。多少強引な部分があっても、それは真実を引きずり出すために仕方のないことなのだ、という傲慢さが透けて見える描写になることが多い印象がある。

この映画の場合、そういう雰囲気はない。

実際のグローブ紙の記者による取材がどうだったかは分からない。多くのマスコミ同様、正義を振りかざし、強引に取材を進めた記者もいたかもしれない。それは分からないのだけど、でもこの映画での描き方はとても良かった。

彼らも、戸惑いながら取材を続けている。実際グローブ紙も、かつて神父の性的虐待を記事で取り上げたことはある。事例として、そういう事件があったという意識はあった。しかし、取材を進めていく中で、彼らは事件の全貌が、構図がはっきり見えてくる。それは、彼らの想像を遥かに超えていた。彼らにとって教会というのは、子どもの頃から親しんできた馴染みの場所だ。そんな教会が、これほどの規模で犯罪を犯し、隠蔽している。そんな事実を彼らも、信じられない思いを抱えながら取材を続けているのだろう。


さらに彼らは、自分たちの過ちをきちんと捉えている。特にそれを意識しているのが、スポットライト欄のデスクであるロビーだ。

『俺達はどうだ。
情報は集まっていた。けど、何もしなかった。』

ロビーは、もっと早くから出来ることがあったはずだ、と思っている。今回はたまたま、新たな局長がやってきて、その局長の指示で取材が始まった。スポットライト欄は通例記者がテーマを決めることになっているから、異例だ。しかし、そのきっかけがなければ、この真実は表に出るのがもっと遅かったかもしれない。被害者がもっと増えたかもしれない。いや、もし自分たちがもっと早くから気付いて動き出していれば、もっと被害者は少なくて済んだかもしれない。そして、それが出来るはずの環境は整っていたのだ。ロビーには、そういう後悔がある。

だからこそロビーは、徹底的に教会と戦う決意をする。その時点でも絶対的なスクープだったものを、さらに熟成させる決断をする。この暗部の責任を、神父や枢機卿という個人ではなく、教会という組織全体に負わせるために。

この記事の後、ボストン以外の様々な地域で、同様の性的虐待の被害が確認されたという。そういうスキャンダルを超えて今、教会と人々の関係はどうなっているのだろうか?

恐らく、何も変わっていないのだろうと僕は思う。

日本にはかつて、オウム真理教という宗教団体が存在した。キリスト教と比較するのは歴史も規模もまるで違うだろうが、オウム真理教程度の歴史の浅い宗教団体でさえ、殺人事件への関与や死者を多数出したテロ事件などを引き起こしながら、名前を変えて未だに団体としては存在している。かつてのオウム真理教の行いを知らない若者たちが、その名前を変えた団体に多く入信するようになっている、というニュースも昔見た記憶がある。

グローブ紙は、教会という権威に、絶大なるダメージを与えた。しかし結局、教会という権威は揺るがないのだろう。特にアメリカは日本とは違って、信仰というものがそもそも日常の中に存在している国だ。仮にキリスト教という団体を捨てることが出来たとしても、信仰する気持ちを捨て去ることは難しいだろう。であれば、結局その最大の受け皿はキリスト教ということになる。きっと、何も変わっていないだろう。

だからきっと、彼らはまた繰り返す。今度は、より巧妙に。
当時ボストン教区にいたロウ枢機卿は、グローブ紙の記事後、ボストン教区を離れ、より高位のヴァチカンにある教区に転属になったと言う。

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