【映画】「屍者の帝国」感想・レビュー・解説

魂の重さは、21グラム。
人間は死ぬと、21グラムほど体重が減ることが確認されている。それが、魂の重さだ。死んだ人間からは、魂が失われる。

1878年、ロンドン。ジョン・ワトソンは、友人であり共同研究者であったフライデーの墓を暴き、彼を蘇らせた。魂はないまま。
ヴィクター・フランケン博士が、最初の屍者である「ザ・ワン」を生み出してから100年。今では屍者技術は、世界経済の発展になくてはならない技術となっていた。
フランケン博士の時代には、屍者技術は感情的に受け入れられなかった。最初に屍者技術を受け入れたのは、女性だ。夫や息子の代わりに屍者が戦場に行けば、大切な人を失わずに済む。屍者の兵士利用という可能性に気づいた各国は研究開発を進め、今ではあらゆる労働力として屍者が使われ、生活に密着するまでになった。
屍者を蘇らせるには、擬似霊素をインストールする必要がある。擬似霊素を解析することは国家機密に違反する行為だが、ワトソンはそれを行い、違法ネクロウェアをインストールし、フライデーを蘇らせたのだ。間抜けな屍体マニア。友人を勝手に屍者化した狂気の科学者。ワトソンはそんな風に呼ばれる。
弱みを握られたワトソンは、ウォルシンガムの指令の元、バーナビーというお目付け役と、ニコライというロシア人と共に、アフガニスタンを目指すことになる。
そこには、ヴィクターの手記と被験者だった屍者と共に姿を消したカラマーゾフが潜んでいる。フライデーの魂を取り戻すためにヴィクターの手記をなんとしても手にしたいと願っているワトソン。しかしワトソンは、そのために、世界を危機に落とし入れることになる…。
というような話です。

伊藤計劃が原案と僅かな冒頭部分だけを残して逝去したのち、盟友である円城塔が書き繋いで完成させた「屍者の帝国」という作品。僕はこの原作小説を読んだ時、あまりにも難しくて全然理解できなかった。伊藤計劃の作品も僕には難解で、さらに円城塔の言い回しもなかなか一筋縄ではいかず、ほとんどどんな内容なのかも理解できないまま読み終えた記憶がある。SF小説がそもそもあまり得意ではない、という理由もあったと思う。
それでも映画を観に行ったのは、伊藤計劃と円城塔が作り上げた世界が、やはり気になったからだ。

どんな技術であっても、その有用さが知られれば、誰もがそれを使うようになる。
携帯電話を江戸時代に使えば、魔術だと思われることだろう。携帯電話が世の中に登場し始めた頃でさえ、そこに価値を見いだせない人はきっとたくさんいたことだろう。しかし既に僕らは、携帯電話がなくては成り立たない世界に生きている。
他人の心臓を移植する、という技術にしても、その技術が最初に行われた頃はきっと非難されたことだろう。しかし心臓移植は、もちろん今でも倫理的な議論は存在するだろうが、治療の選択肢の一つとして僕らの意識の中には定着している。
だから、屍者を労働力として使う、という技術も、もし本当にそんなことが可能なら、実現する日が来てもおかしくはないだろう。現代を生きる僕らは、当然それに忌避感を覚える。死んだ人間が労働力として働いている世界は、やはり生理的に気持ち悪いだろう。日本は特に、火葬する習慣があるからなおさらだろうと思う。しかし、災害現場での救助要員として、後継者のいない伝統技術の継承者として、高所作業など危険な作業を行う人員としいての有用性が認められれば、徐々に広がっていく可能性はある。とはいえ、屍者技術よりも先に、アンドロイドの技術が確立されるだろうから、現実的に僕らの世界で屍者が労働者として使われる世界がやってくることは、きっとないだろうと思うけれども。

もし屍者を蘇らすことが出来たら、あなたはどうするだろうか?大切な人が亡くなった時、その人を蘇らすことが出来ると言われたら、あなたはどんな選択をするだろうか。
この問いに答えることは難しい。何故なら、ワトソンを始め、世界中で使われている屍者技術では、屍者は言葉を持たず、感情を持たず、魂を持たないからだ。
「ザ・ワン」は違った。フランケン博士は、感情を持ち、言葉を操る屍者を生み出していたという。その秘密が、ヴィクターの手記に書かれている。なんとかしてフライデーの魂を取り戻したかったワトソンは、あらゆる手を使ってでもそれを成し遂げようとする。
肉体は動くが、意志はなく、会話もなく、魂もない屍者。だからこそ、労働力として最適であるとも言えるのだが、しかしそれでは、大切な人が亡くなった時に蘇らせようと思う人は少ないだろう。

『私がしていることは、君を苦しませるだけじゃないのか』

ワトソンがそう呟く場面があるが、そうなのかもしれない。魂の宿らないただの容れ物として”生かされている”よりは、命を失った者として安らかに眠る方がいいかもしれない。
しかし、フランケン博士が生み出した「ザ・ワン」の存在が、そしてヴィクターの手記の存在が、ワトソンの判断を狂わせていく。

『あなたが手記を求める理由は?』

そう問われたワトソンは、屍者技術の向上のため、と答える。しかし、『手記を求める理由は、彼なのですね』と見破られてしまう。

『手記の先の現実を受け入れる覚悟は?』

ワトソンには、この問いの意味が、問いかけられた時には分からなかった。分かったのは、ずっとずっと後のことだ。『目を背けたのはあんただ!』と強く迫ったワトソンは、自分が何も見ていなかったことを悟る。手記の先の現実は、地獄だった。

『誰かに思いを伝えることは、難しいですね』

この発言は、発言者の様々な後悔を含んでいるのだろう。かつて兄を実験台にした時の、そして共同研究者であった者の命を奪った時の自分のふがいなさに対して、そして今まさに手記を追おうとしている若者に気持ちが届かないことのもどかしさに対して。ワトソンは、彼の忠告を無視し、自らの欲望を全力で追いかけることによって、世界の破滅に加担する。

『お前は、お前の見たいものを見てるだけだ』
『これ以上、死んだ人間にこだわるのはやめろ』
『お前もヴィクターと同じ道を歩むのかね』

ワトソンは、ヴィクターの手記の秘密を知る。彼は、フランケン博士が何をしたのかを知る。それはあまりにも残酷で、あまりにも禁忌だった。しかし、それを知ってもなお、ワトソンは止まらなかった。止まれなかった。フランケン博士がたとえそうしたのだとしても、どこかに、どこかにきっと、魂を取り戻す方法があるのだと信じた。信じるしかなかった。約束したのだから。彼は、信じるしかなかった。

『思考は言葉に先行する』

ワトソンは、それを証明したかった。

『思考は言葉に先行する。言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある』

その証明のために、ワトソンは突き進んだのだ。

『思考は言葉に先行する』
僕はそうは思わない。脳科学や言語学の世界で、何らかの成果が生まれているかもしれないし、僕はそれについて何も知らないけど、僕は「言葉は思考に先行する」と思っている。
そのためには、「思考」を定義しなくてはいけない。もっと具体的に言えば、「思考」と「本能」を区別しなければならない。
動物にはみな本能がある。蚊は人間の血を吸い、ライオンはシマウマを喰い、蜘蛛は糸で巣を張る。これらは、誰かに教わって行うものではない。予め、遺伝子やらDNAやらに刻まれていることなのだろう。
人間にしても同じだろう。明確な区別は難しいけど、動物を狩るために必要な道具を生み出すとか、様々な目的のために火を熾すというような行為は、本能に近いのではないかと思う。遺伝子やらDNAに刻まれているわけではないが、膨大な繰り返しの経験が、行動や動作によって伝わっているという意味で言えば、遺伝で伝わるものと同列に考えてもいいように思う。
しかし、例えば「人間は死んだらどうなるのか?」というような問いを生み出すこと、そしてその問いに答えを与えようとすること。これらはまさに「思考」だ。「本能」と「思考」を厳密に区別して定義は出来ないのだけど、そんなイメージを持っている。
その場合、「思考」よりも先に「言葉」があるのではないかと僕は感じている。
言葉があるからこそ、人間は「思考」を進めることが出来る。
人が動かなくなり、喋らなくなり、体温が失われることを「死」と名付ける。「死」と名付けるからこそ、「人間は死んだらどうなるのだろう」という問いが生まれる。僕には、こういう順番の方が自然に思える。

中国人の部屋、という有名な話がある。人工知能が知能を持っているのか、という論争で、誰かが提示した比喩だ。
人工知能は、人間と自然に会話をすることが出来れば、知能を持っていると言えるのではないか、という主張に対して、ある人物はこう反論する。例えば、ある部屋に中国人がいるとする。その中国人は、英語はまったく読めないが、部屋の中には英中辞書が存在する。その部屋には、外から様々な英語の文書が送り込まれる。中にいる中国人は、その文書を辞書で調べ、すべて中国語に変換して部屋の外に出力する。
この場合、この部屋の外にいる人間には、「この部屋の中の人物は、英語を理解する力があるのだな」と判断するだろう。しかし実際には、中の中国人は英語を理解できない。
人工知能でも同じことだ。人間と意志の疎通が出来ていても、ただそれはプログラムにしたがって言葉を出力しているだけで、それ自体が知性のあるなしを決めるわけではない。だから僕は、「言葉があるなら心がある」という部分も怪しいと感じる。

しかし屍者の場合は、この話は若干難しくなる。何故なら、屍者は生きている頃、言葉を持っていたからだ。何らかの操作によって、「失われたものを取り戻す」という可能性はあるだろう。あるいは、「失われていたように見えていただけで実は失われていなかった」ということだってありうる。しかしだからと言って、「言葉を取り戻すこと」が、そのまま「心を持つこと」と直結するとは思えない。

ワトソンは、「言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある」と信じている。だから、フライデーに幾度も問いかけ、言葉を発させようとする。しかし、それはただの妄想に過ぎない。「言葉があるなら心があり、心があるなら魂がある」というのは、ただの、検証されていない仮説に過ぎない。

ある場面で、フライデーに魂が戻ったかに思わせる瞬間がある。あの描写が何だったのか、正直僕には理解できていない。もしあれが、偶然の挙動ではなく意志によるものであるとするならば、僕は魂の存在を信じてもいい。もちろん、失われた21グラムが魂の重さなのかどうかは、また別の問題だと思うけれど。
とはいえ、その場面の後もワトソンは、証明を果たしたような清々しさを見せない。もちろん、自分のせいで世界を混乱に陥れてしまった責任を感じていて、自身の喜びに浸れなかったという可能性もあるだろうが、しかしきっとそうではないだろう。ワトソンが、あの挙動をどう捉えているのか、それはよく分からないのだけど、何かを果たしたような気持ちになれていないことは確かだろう。

物語は終盤、そのスケールを増していく。ヴィクターの手記を狙う様々な者の内の一人が、壮大な計画を実行に移そうとする。

『全員が絶望を感じなくなることは、至福の一つの実現だ』

その思想に間違いはないのかもしれない。しかし、その実現手段があまりにも狂気に過ぎた。屍者を労働者として使役している世界においては、何が正しくて何が間違っているのか、そんな倫理観も歪んでしまうものなのかもしれない。
ワトソンはワトソンなりの答えを提示して、その計画を阻止しようとする。さらに新たな計画が発動し、屍者を取り巻く様々な思惑が世界を混沌に陥れることになる。争いのない世界を生み出すのだ、と宣言した狂人の思想はおかしいと思うが、しかし一方で、ワトソンも狂気の淵に立っていたことがある。誰が狂っていて誰が正しいのか。腕っ節の強さしかない男のあり方ぐらいが、一番気楽でいいのだろうと思う。

ハダリーという謎めいた女性の存在も、屍者で埋め尽くされた世界にあってまた違った問題を提示することになる。魂とは何か、心とは何か。言葉を持つ者にそれがあるのか、あるいはないのか。終わらない問いが渦巻く世界の中で、ワトソンは自分が正しいと信じる道を進んでいくことになる。

なかなか壮大な物語で、世界観すべてを理解できているわけではない。終盤に行けば行くほど、理解できないシーンは増えていった。それでも、様々な形で「生きているとは?」「人間とは?」と問いかけてくる深淵な物語が、自分の深いところにまで下りてくるのを感じた。踏み越えてはならない領域に足を踏み出していった者たち同士の相反する価値観がぶつかり合う中で、生と死を巡る物語を展開させるのはさすがだ。実在する著名人が多数登場し、その著名人の思想なんかももしかしたら作品に組み込まれていたりするのかもしれないけど、それは僕には分からない。深読みしようと思えばいくらでも出来そうな物語の壮大な輪郭は見事だと感じました。

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