【映画】「葛城事件」感想・レビュー・解説

僕は昔から、家族というものへの幻想は、特になかった。

昔から、家族というものが苦手だった。そこまで言語化できていたかは分からないけど、血が繋がっているというだけで価値観のまるで違う人が一緒に暮らしているのって変だな、と思っていたと思う。今でも僕は、家族というものに対して、そういう感覚しか持てない。血が繋がってるからって、それがどうした?と。

血が繋がっていようがいまいが、価値観が合うなら一緒にいればいいし、価値観が合わないなら離れればいい。僕はそれが自然だと思うのだけど、しかし「家族」という括りは、どうもそれを許さない。血が繋がっている、という点が何よりも大事であって、それがどれほど自分と合わない人間であっても、関係を切ることは基本的には許されていない。

おかしいなぁ、と思う。

こういうことに特に疑問を抱かない人、あるいは、積極的に家族って素敵だよねっていう価値観を受け入れている人。そういう人を、僕は、ちょっと怖いな、と感じてしまう。

あなたは、たまたまラッキーな環境にいるだけなんですよ、と思ってしまう。

家族というのは良いものだ、という考えは、ある意味で国家の基盤を成す。結婚し子どもを生む、というサイクルを連綿と続けてくれないと、人は後世に繋がっていかないし、それは国家の衰退をも意味する。だから国家は、家族というのは良いものだ、というプロパガンダを提供しようとするし、長い間そういう価値観の中で育ってきた人は、それに疑問を抱かないまま、家族って良いよねという価値観を継承していくことになる。

でも、家族が最悪を引き連れることだって、頻繁にある。

家族が事故を起こすかもしれない。引きこもって部屋から出なくなるかもしれない。誰かを殴るかもしれない。何かを盗むかもしれない。テロを起こすかもしれない。子どもを捨てるかもしれない。認知症になって重い介護の負担を強いるかもしれない。詐欺に騙されるかもしれない。

人を殺すかもしれない。

「家族という幻想」の中に生きている人は、そういうことは対岸の火事だと思うだろう。私のところは大丈夫だ、と。どこに根拠があると思えるのか僕には理解し難いのだけど、「家族という幻想」は、そういう最悪が我が家には起こらないのだという思い込みを作り出すことが出来る。

ニュースで流れる様々な悲惨なニュースは、どこか酷い家族で起こったこと。うちは大丈夫。だって、こんなに素敵な家族なんだから。


そういう環境の中で死ぬまで暮らすことが出来たとすれば、それはもうラッキーなのだ。あらゆるものに感謝した方がいい。

葛城家も、最初から最悪が約束されていたわけではない。美しい妻、若くして建てた家、二人の子ども、子どもの成長を託すようにして庭に植えたミカンの木。葛城家も、未来永劫の幸せな未来を夢見ることが出来る、そういう家族だった時期があった。

しかし葛城家は崩壊した。
そしてこの崩壊は、どんな家族にだって起こりうる。
そう思えない人がいたら、それは、想像力の欠如した人間なのだと僕は思う。


家族が幸せを運ぶか不幸をもたらすか。それはもう運でしかない。
僕は昔からそう思っているし、これからもそう思うだろう。
だから僕は、家族が欲しいとは思えない。


葛城清は、左足を庇うようにして杖をつきながら、家の外壁に白いペンキを塗る。「死ね」だの「出て行け」だの書かれた文字を消すために。庭付きの一軒家に、清は一人で住んでいる。妻も、息子二人も、もう戻ってくることはないだろう。
そんな葛城家に出入りする人間は、もはや一人。星野順子と名乗る女性だ。この女性は、私は人間に絶望したくない、死刑制度は絶望の証だと言って、とある死刑囚と獄中結婚し、彼の心を開こうとしている。
葛城稔。葛城清の次男。彼は駅構内でナイフを振り回し、多数の死傷者を出す無差別殺人を引き起こす。死刑の判決が下ると笑みを浮かべ、順子に対して、わがままな理屈を振りかざす。
稔が事件を犯す前から、葛城家は崩壊の予感で満ちていた。
清は、何事に対しても自分の正しさを主張し曲げない男だ。清が思う正しさが良い方向に働く時はよいのだが、常にそうとは限らない。清が思う正しさは、時として、いや頻繁に、妻・伸子や稔を追い詰める。
長男の保は、学業は優秀だったが、営業マンとしてはパッとしない。本人としてはそれなりにやっていたつもりだったが、クビを宣告されてしまう。
妻と子どもがいながら、保は、リストラされた事実を言えないまま日々を過ごす。
稔は、働きもせず、コンビニと家を往復するような生活を続けている。仕事も長続きせず、一発逆転を狙っていると言ってはばからないが、しかしだからと言って何をするわけでもない。そんな稔を、清は容赦なく扱う。しかし伸子は、そんな稔の味方になってあげたいと思っている。
伸子は、高圧的な夫・清の元で長年暮らしたせいか、自分で何かを考える力を失ってしまっているように見える。夫に従順で、何をするわけでもなく無気力。稔の盾になろうという意志は常にあるが、清の力にいつも屈してしまう。

あちこちに火種を抱えたまま、騙し騙し家族の形を維持し続けてきた葛城家だったが、崩壊の足音はどんどんと大きくなっていく。伸子と稔が、保が、そして稔が…。
「俺が何をした!」
清は、家族が崩壊したという現実を認めないかのように一人で一軒家に住み続け、自分も被害者なのだと声を荒げる。
というような話です。

一切の救いなく、家族という地獄を描き出していく。また繰り返すが、これが「特殊な家族」に見えるのだとすれば、想像力が欠如していると僕は感じる。確かに、清の存在は葛城家崩壊に大きく寄与している。清の性格がもう少し違ったものだったら、葛城家はあんな風に崩壊しなかったかもしれない、とも思う。我が家に清のような人はいないから大丈夫だ、と思う人もいるかもしれない。

しかしそうではないと僕は思うのだ。

清のあのあり方は、自分や家族の幸せを願った部分から来ている。もちろん、その発露の仕方には大いに問題はある。しかし、清の言動が、理想を求める気持ちから生み出されていることは否定出来ないと僕は思う。

そして、自分や家族の幸せを望む人は、どの家族にもいることだろう。

鶏と卵の話に近くて、例えば清がああだったから稔がああなったのか、あるいは稔がああだったから清がああなったのか。それは、誰にも断言できないはずだ。というか、葛城家の人全員が葛城家崩壊に関係している。誰が歯車を狂わせたかではなく、全員で歯車を狂わせたのだ。そしてそれはある意味で、避けられない不幸だったのだと僕は思う。

葛城家の面々がモンスターに見えるとすれば、誰の内側にもモンスターはいる。たまたまそれが表に現れでない環境にいられているだけで、環境次第ではあなたのモンスターも表に出てくる。別にそれは、稔のように無差別殺人を引き起こすモンスターだけではない。思考停止するモンスターもいれば、死の誘惑から逃れられなくなるモンスターもいる。

この物語は、決して他人事ではない。

全編を通じて非常に惹きつけられる物語だったが、その中でも特に印象的だったシーンが三つある。

一つは、稔がこんな風に言う場面だ。

『まだ生きなきゃなんないのかよ』

この感覚は、昔の僕も持っていた。今でも、ふとした瞬間にそう思うことはある。

生きていることは、とてもしんどい。そんな風に思ったことがない、という人は、幸せな人だ。僕は人生を、長い長い暇つぶしだと捉えていて、なんで毎日こんな暇つぶしをしないといけないのかなぁ、と思うことがある。めんどくさいなぁとか、やってらんねぇなぁとか、昔はよく思っていた。

稔は、合法的に死ぬために無差別殺人を引き起こす。この理屈を否定し、稔の行動を抑止することはほぼ不可能だと僕は感じる。死にたいなら自殺すればいいと思う人もいるだろう。僕も確かにそう思う。しかし稔には、自殺だけは出来なかった。自殺が出来ない理由が生まれてしまった。そもそも稔の中では、自殺は“負け”なのだろう。稔にとって、“勝って死を選びとる”手段は、死刑になることしかなかったのだ。

もちろん、死刑になるために人を殺す、という行動は異常だと思うし、理解できるわけではない。しかし、死刑になりたいと思っている人間が人を殺すことを、僕らの社会は防ぐことは出来ない。僕は、死刑制度に対して強い意見は持たない。賛成反対、どちらの言い分もまあそうだよな、と思ってしまう。しかし、ことこの点、つまり「死刑制度が存在するせいで、死刑になりたい人間が殺人を犯す可能性が存在する」という点においては、死刑制度はなくなった方がいいと感じる。

稔の、「まだ生きなきゃなんないのかよ」を掬い取る余地が、今の社会にはたぶんない。稔のその感覚が、僕には理解できてしまうために、稔のことを他人事だとは思えないのだ。僕だって、人生のどこかでもう少し何かがあれば、稔のようになっていたかもしれない。

二つ目は、妻・伸子のカナブンの話だ。これは、状況を詳しく説明するわけにはいかないので伏せるが、伸子がある場面で、ひたすらカナブンの話をし続ける。

これは物凄く怖かった。伸子は、どこかの段階で確実に壊れていた。葛城家では、伸子が作ったと思しき料理は一度も登場しなかった。出前やコンビニ弁当ばかり食べている。伸子は専業主婦だ。家族の中で何らかの取り決めがあるのかもしれないが、専業主婦であるのに料理をしないのは、そこに何らかの想像を組み込みたくなる。

そういう意味で、カナブンの話をするずっと以前から、伸子は壊れ始めていたのだろうとは思う。しかし、観客には、その崩壊は明確な形では見えていなかったと思う。一度、伸子が保にカップラーメンを勧める場面があるが、崩壊の予兆が見えた場面と言えばそのぐらいだろう。

だから、カナブンの話をし続ける伸子の恐ろしさが際立った。清は、自分の正しさを自覚しながら、周囲を翻弄する男だ。それはそれで恐ろしいが、しかし伸子の、ずっと壊れていたのかもしれないと思わせる言動も、一方でとても恐ろしかった。

最後は、とあるスナックでの清の言動だ。隣のテーブルに座っていた老人三人が清に対して、「どの面下げてここにいられるんだ」「早くこの町から出て行け」みたいなことを呟き喧嘩になる。

そこで清が打った高圧的な演説は、とても印象深い。自らもまた被害者であると語り、稔の血や肉や内臓を病気の人に提供する、脳を研究に使ってもらう、そういうことで貢献するからそんなところでご容赦願えないだろうか、というようなことを、とても高圧的に滔々とまくしたてるのだ。

色んな見方はあるだろうが、清の意見にも一理あると僕は感じる。
「稔を裁けるのは国だけだ。国だけが稔を殺せる。そしてそんな制度を容認しているお前たちが稔を殺すんだ」
僕は常々、犯罪者の家族にどこまで責任があるのかということを、報道を見ながら考えてしまう。正直、清には、上記のようなセリフを吐く資格はないと思う。どちらの変調が先立ったのかはともかく、結果的に稔を追い詰めたのは清だ。清が、何の関係もない被害者意識でいるのは、ちょっと納得はいかない。

しかし世の中のすべての加害者家族がそうなわけではないだろう。加害者の家族だ、というだけの理由で足蹴にされる謂れはまったくないと僕は感じる。そういう意味で、清が打つ演説の中身には賛同できなくもない。


この映画の中で、最も違和感をもたらすのが、星野順子だろう。正直彼女の存在は、理解不能と言っていい。

星野は稔と獄中結婚する。それは、獄中にいる稔と面会できる権利を獲得するだけの便宜的なものである、という側面と同時に、星野はどうも心から稔と家族になろうとしていると感じられる。

星野は、稔と結婚するという行動のせいで、本来の家族を失ったという。星野は、そうまでして稔と獄中結婚をする。

面会に足繁く通う星野だが、稔とはまともな会話が成立しない。しかしそれでも星野は、稔を愛すると言い、稔と本当の家族になりたいと語る。

星野の言動がすべて言葉通りであると捉えると、星野という女性がまるで理解できなくなる。確かに彼女は死刑に反対する立場の人間ではあるが、だからと言って稔と獄中結婚して話を聞くぐらいでどうこう出来るわけがないと、普通は思うだろう。星野が本気でそう思っているのだとすれば、星野はある意味で頭がイカれているのだと思う。

そして星野の言動に何か裏があるのだと考えても、まったく分からない。星野にはそうするメリットは一つもないように思えるのだ。自己満足のためだと考えても、失ったものとの釣り合いが取れなさすぎる。

だから僕には、星野という存在がまったく理解不能に映る。

あらゆる家族の形を重ねあわせて、家族という地獄を描き出した映画は、ラストで衝撃の展開を見せる。最後の最後、清が星野に発した言葉は、家族と幸せを追い求めた一人の真っ当な男の悲哀の発露と言えるだろう。自分がちゃんとは手にすることが出来なかったものを、もう一度手にするチャンスが欲しい。その一心が彼に、あの言葉を吐かせたのだろう。だからといって、清の発言が許されるものだとはまったく思わないが。

最後の最後までざわつかせる映画だった。

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