【映画】「ミセス・ノイズィ」感想・レビュー・解説

正直、そんなに期待してなかったんだけど、メチャクチャ面白かったなぁ。タイトルとか、予告の感じとかからイメージしてたのと良い意味で期待を裏切られて、現代っぽい問題を真正面から切り取りながら、人間の関係性の普遍的な困難さみたいなものが浮き彫りになって、凄く良かった。


生きていて時々意識させられるのは、「想像力を無くしたらお終いだよなぁ」ということ。それは本当に怖い。

それは、空想世界を思い描くみたいな想像力ではなくて、「どんな人間にも、その人なりの理屈が存在するはずだ」という想像力だ。

生きていると、イライラしてしまうことはたくさんあるし、他人と分かり合えないなと感じる機会も多い。でもそういう時に、自分の理屈だけで相手の言動を非難しないように、なるべく意識しているつもりだ。

ただこれ、結構難しいんだよなぁ。大体こういう価値観のすれ違いみたいなのって、自分では気づいていないことが多い。「子供の頃、味噌汁の具はなんだった?」という会話を大人数で行うことで初めて、自分の家族の味噌汁が変だったと気づく可能性があるというのと同じ感じで、価値観も言語化して表に出してみなければ、それが世間と摩擦を起こすかどうか分からない。そして大体の場合、自分の価値観を明確に認識するよりも先に、世間との摩擦が起こってしまい、結局トラブルに発展してしまうことになる。

そうならないように、僕は意識的に、本を読んだり映画を観たりして、世の中に存在する様々な価値観を取り入れるように意識してきた。自分の中で、何か違和感を覚えるような価値観と出会った時に、自分が持っている価値観の輪郭もはっきりとしてくる。そういう時、自分がどんな考えを持って生きているのかということが意識されるのだ。

今の時代、「共感」というのが通貨のように強い力を持っている。「共感できる」ということが、世の中に存在するあらゆるコンテンツを評価するある種絶対基準みたいになってしまっているし、「共感できない」ものは「ダメ」であるような烙印を押されてしまう時代でもある。

もちろん、「共感」はいい。それ自体を否定したいと思うことはない。ただ、「共感」に近寄りすぎることで、「共感できないもの」を無意識の内に遠ざけてしまっているとすれば、それは怖い。何故ならそれは、世の中に存在しうる様々な価値観を知る機会を失っているということであるし、同時に、自分がどんな価値観を持っているのかを炙り出す機会を失っているということでもあるからだ。

「共感」が強くなることで、「常識」や「普通」を巡る齟齬はますます大きくなっていくように感じる。探せばどこかには必ず、自分と価値観の近い人は見つけられる。ネットの時代だからなおさらだ。でもそうなればそうなるほど、「自分自身が意識的に認識できている価値観」にしか注目が向かなくなる。そして、違う価値観を持つ人間と関わった時、相手にも相手なりの理屈があることを想像できずに、自分の理屈の正しさを突き通してしまう。

世の中の「炎上」と呼ばれる現象は、大体これで説明がつくだろうなぁ、という気がする。もちろん、悪意を持って相手に攻撃を仕掛けるような「炎上」ももちろんあると思うけど、想像力があれば回避できるはずの「炎上」もまた多いのだろうと思う。

相手にも相手なりの理屈がある、という意識は、怒りの感情に支配されると忘れてしまいがちだ。そうはならない人間でいたいなと、いつも思っている。

内容に入ろうと思います。
吉岡真紀は、水沢玲というペンネームで小説を書いている。デビュー作が絶賛されるも、その後はスランプが続き、6歳の娘と夫との生活の合間を縫って、なんとか小説と格闘している。
吉岡一家は、都心から郊外へと引っ越した。スランプ中の真紀は、娘と公園に行くという約束も破って小説に打ち込むが、そこに謎の音が届く。まだ朝の6時前。それは、隣の家のおばさん(若田美和子)が、ベランダで布団をバシバシ叩く音だった。何でこんな朝っぱらから…。また、ほったらかしにされた娘が勝手に家を出たことに気づき心配していると、隣のおばさんと一緒に公園に行っていたという。一言声を掛けてくれればいいのに。また別の日には、一向に帰ってこない娘を心配して警察を呼んだりもするが、実際は隣の家でお昼寝をしててチャイムに気づかなかっただけだった。
真紀の怒りは日増しに高まっていく。夫に隣のおばさんのことを訴えるが、どこか他人事。また、原稿を直しても、出版社から色好い返事はもらえない。隣のおばさんの家に行きたがる娘に、もう遊んじゃダメと言い聞かせても聞かない。生活のすべてがうまくいかない原因を、真紀はすべて隣のおばさんのせいにしていく。
ある日真紀は弟から、「そのおばさんをネタにして小説書けばいいじゃん」と言われ、乗り気ではなかったもののやってみることにした。タイトルは「ミセス・ノイズィ」。するとこの原稿は編集部内で評判に。若者向けの雑誌で連載されることになった。しかし、真紀の知らないところで、「隣のおばさんVS小説家・水沢玲」のバトルはいつの間にか話題になっており、そんな状況の中で真紀が隣のおばさんをネタに小説を書いたことで、想像もつかないような展開が巻き起こされることになり…。
というような話です。

とにかく、物語の展開が面白い映画でした。最初は、「引っ越したら隣のおばさんが騒音を撒き散らす人だった」という、まあありがちな設定から想定できるような展開で、まあそうだよねこんな風に進むよね、と思いながら観てたんだけど、途中からちょっと印象が変わっていく。で、一度物語が変転してからは、「どっちが正しいんだろう」という見方に変わる。物語の冒頭では、明らかに一方的に悪者だった側の印象が一気に変わる。そして、「どっちが正しいんだろう」という印象は最後まで尾を引いて、なんとも言えない味わいを残していく。

ある場面である人物が、「私、正しく生きてるわよね。世の中の方が、間違ってるのよね」と言う。このセリフは、なんというのか、非常に重層的な感じがした。正直、この発言をした人物が、「100%正しいか」というと、なんとも言えない。そういう印象をもたらしているのが、キュウリの描写だろう。あのキュウリの描写が無ければ、彼女のことを「100%正しい」と評しても良いと思える。でもたぶん監督は、そういう風にもしたくなかったんだろうな、と思う。どのみちどんな人間だって、「100%正しい」なんてこともないし「100%間違ってる」なんてこともない。

この人物が「100%正しい」とすれば、先程の「私、正しく生きてるわよね。世の中の方が、間違ってるのよね」という言葉は、素直な実感と受け取れる。しかし、この人物は決して「100%正しい」わけじゃない。そうなった場合、このセリフは、色んな捉え方が出来る。本当に自分が100%正しいと思っている人間の勘違いしたセリフとも捉えられるし、自分が100%正しいわけじゃないとわかっている人間が、それでもキツく辛い世の中で踏ん張っていくために自分を鼓舞する言葉にも聞こえる。映画を観た人はたぶん、後者の感じで捉える人が多いんじゃないかと思う。

あと、男である僕は、真紀の夫の描かれ方も印象的でした。夫の登場する場面はそう多くないのだけど、夫は最後まで、「真紀が捉えている問題」に踏み入ろうとしません。夫がしていることは、「隣人トラブルを客観的に見る」ことです。

そして、ここに、性差が大きく出るよなぁ、と感じさせられました。

よく言われることですけど、男は「問題を解決しようとする生き物」で、女性は「共感を求める生き物」です。そして、この夫婦のすれ違いは、まさにこの点のすれ違いだなぁ、と感じます。

夫は、「客観的に判断して、どちらが正しいか、どういう行動を取るべきか」という話をします。男である僕は、この夫が言っている「内容」に納得感があります。「子供の前で「ババア」とか言うのは止めろ」とか、「隣のおばさんがどうか知らないけど、そもそも真紀が娘をほったらかしにしてたのも事実なんでしょ」という「発言内容」は、まあその通りだよなぁ、と思う部分が多いです。

ただ一方で、女性は「どっちが正しいとか、どうやって解決するかの前に、私が大変だったということに共感してほしい」と考えます。で、夫は基本的にそういう役割を一切しない。そして、その事実に対して真紀はさらに苛立ちを募らせることになるのだけど、夫はそのことにまったく気づかない、という状況が描かれています。

この映画で描かれる夫の振る舞いが正しいか間違っているかという話には足を踏み入れませんけど、夫がもう少し共感を示していたら、真紀があそこまでエスカレートすることはなかったかもしれないとは思います。そういう意味で、夫ももうちょっと上手くやってればなぁ、という感じがします。

物語そのものも面白かったし、色々考えさせられる設定・展開であったのも凄く良かったなと思います。そんなに有名な役者さんが出てくる映画ではないですけど、お金が掛かってそうな大作にも引けを取らない面白い映画だと思います。

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