【映画】「天命の城」感想・レビュー・解説

誇りのために死を選ぶか?それとも、恥辱とともに生きるのか?

これは、置かれた状況によって答え方が変わる。少なくとも僕は。

死んだり生きたりするのが僕一人なのであれば、まあ死を選んでもいいか、と思う。特別強く生きたいと思っているわけではないので、わざわざ恥辱に耐えてまで生きる気力はない。誇りのために死を選ぶ、という積極性ではなく、恥辱がめんどくさいから死ぬ、というような判断をするだろう。

しかし、死んだり生きたりするのが僕一人の話でないのなら、僕は生きることを選ぶだろう。

僕一人の決断で、多くの人の生死を決するような状況にいるのであれば、そんなもの、考える余地もない、と僕は思う。「誇り」というのがどこまでを指すのか、つまり「個人」の誇りなのか「民族」の誇りなのか、はたまたもっと別の誇りなのかによっても変わってくるのかもしれないが、しかしそれがどんな誇りであれ、それを守るために多くの人が命を失うというのであれば、そんな誇りは捨ててしまえばいい、と僕は思う。

もちろん、なかなかそんな決断を迫られることもない。僕が言っていることはリアルさの欠片もないのかもしれない。それでも、多くの人の命を救う決断をしたい、という気持ちはどんな場合でも持っていたいと思う。

この映画では、「王の誇りを守るために死を覚悟で戦う」か、「王に恥辱を味あわせてでも人民の命を救う」かという二択が提示される。前者の主張は、大臣たちの大半の総意であり、後者の主張は孤軍奮闘という状況だ。後者の主張は圧倒的不利にある。しかし、時代背景や民族対立の歴史など、色んな要素が絡まり合うのだろうとはいえ、やはり僕は、圧倒的に後者の主張の方が真っ当だろう、と考えてしまう。

『あなたがたの大義や名分は、なんのためのものですか?人が生きてこその、大義や名分ではないのですか?』

その通りだと思う。そこに生きる者がいなくなってしまえば、どんなに立派な大義や名分を掲げていようと、何の意味もない。戦う価値も、耐える価値も、人がいればこそ、だ。

戦を前にすると、どうも人は「何故戦うのか」を見失うようだ。少なくとも、僕が読んできた本や見てきた映画には、そういう人たちがたくさん登場した。「奪う」ために戦うというのももちろんあるだろうが、今僕がここで書きたいのは「守る」ための戦いだ。「守る」ために戦っているはずなのに、戦場において真っ当な判断が出来なくなり、戦うことで守るべきものを失ったり傷つけたりしてしまう、などということにもなりうる。

映画を見ながら、そんな人間にはなるまい、と改めて感じた。

内容に入ろうと思います。
17世紀、北東アジアを制圧しようとする清は、朝鮮に臣従を求めた。しかし朝鮮は、明を父と仰ぐ国。明に対する義理からそれを拒絶する。1636年12月14日、清は朝鮮に攻め入った。朝鮮軍は王と共に、南漢山城に逃げ込んだ。兵の数は13000人。清はその10倍以上の数で山城を包囲している。
雪降る、寒さ厳しい季節。食料もあまり持ち出せていない。見張りの兵たちは凍傷にかかり、また飢えで命を落としていく。
清との交渉の矢面に立った吏曹大臣・ミョンギルは、和睦の道を探る。敵将から、王の世子を人質として寄越すよう命じられ、ミョンギルは、生きるため従うべきだと主張する。しかし、礼曹大臣・サンホンは、ミョンギルの主張に真っ向から反論、和睦の道を探るなど逆臣のすることと、ミョンギルの首を撥ねるよう進言するほどだ。
南漢山城に立てこもった彼らには、まともには生き残る術はない。しかし大臣たちの多くは、王に仕える者として徹底抗戦すべきと主張する。ミョンギルだけが、逆臣と罵られつつも、どんな状況でも和睦の道を探り、王に恥辱を味わわせることになっても、皆が生き残ることこそが大事だ、と主張し続けるが…。
というような話です。

なかなか良い映画でした。結構お金掛かってるんだろうなぁ、と感じるくらいのなかなかの壮大さで、映像的にもなかなかパワフルな映画でした。

映画のメインは、和睦か抗戦かの判断に揺れ動く王や大臣たちの物語なのだけど、それらに加えて枝葉の物語が色々とある。

まずは、南漢山城の麓にある村で鍛冶職人をしているナルセとその弟だ。彼らは卑賤の身分であり、朝鮮が清と明、どちらの元にいようがどうでもいい。しかし戦闘に巻き込まれ、仕方なく警備につかされている。しかし、色々あって、彼らは徐々に、南漢山城において重要な役割を担うようになっていく。

ナルセという男の立ち居振る舞いがなかなかいい。強く優しい男で、自分がやらねばならないことを、感情を押し殺してでも遂行する。表には出さない、色んな複雑な感情を内に秘めているだろうが、それらをグッと飲み込んで、国のためではなく、自分が大事だと思う人たちのために奮闘する姿はカッコいい。

また、南漢山城に迷い込んできた一人の少女も、なかなかいい味を出している。凍った川を渡る道案内をしてくれた老人の親族であり、彼女もまた、国同士の戦いなどに関心はない。家に戻ってこなかった祖父の行方だけが心配なのだが、サンホンは少女と一緒に暮らす中で、初めは優しく接することが出来なかった少女に対しての態度を少しずつ変えていく。

また、ミョンギルの古くからの友人であり、兵をまとめる守御使であるシベクも重要な役割を担っている。なんというのか、戦というのは本当に、アホな上司を持つと一瞬で壊滅するよなぁ、ということがよく分かる場面があって、シベクは能力がありながら苦労させられている。

そんな面々が、それぞれ生きるために奮闘しながら、それぞれの「生」「死」を考える。そこには、大きな対比がある。王や大臣らの「賊軍に命乞いをするくらいなら…」という発想の対極として、ナルセの「俺たちのような者は、種を蒔いて収穫することだけを考える」という発想がある。上の立場にいる者たちは、「王が誇りを失えば人民はついてこない」と言うが、人民はそんなことどうでもいいと思っている。「命を賭けている兵たちの士気が下がる」と言ったって、そもそも寒さと飢えで士気もクソもあったもんじゃない。しかし彼らは、自分たちが置かれた状況下で「抗戦」を選ぶ大義名分として人民や兵の話を持ち出してくる。そんなクソみたいな理屈は、古今東西過去様々な歴史の中で繰り返されてきたことなんだろうけど、やっぱりイライラしてしまうなぁ。

王や大臣らの大半の理屈には納得できないものがあるんだけど、それは時代的に仕方ないとして、ミョンギルような者がきちんといるということに救いが感じられる映画でした。

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