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【本】風に恋う(額賀澪)感想・レビュー・解説

勉強するのが、ずっと好きだった。いや、今でもたぶん好きだ。

学生時代は、ずっと勉強をしていた。夏休みの宿題を夏休み前に片付けて、それから夏休み中ずっと勉強してた。もちろん、強迫観念もあった。「勉強が出来る」というのが、僕の唯一のアイデンティティだったから、成績が落ちることへの恐怖はあった。けれど、だとしても、あれだけずっと勉強できたのだから、やっぱり好きだったのだと今は思う。

僕には、「勉強を頑張ったあの頃の自分」が「今の自分」を支えている、という実感がある。使える時間は全部勉強に注ぎ込むぐらい勉強していたことが、今の自分に繋がっている。あの頃、あれほど勉強を頑張ってなかったら、たぶん今の日常はこなせていないだろうし、今僕が自分の内側から出せている(と思いたい)ものも、恐らく出せず仕舞いだっただろう。

とはいえそれは、勉強をして学んだことが今に活きている、という意味でもないし、勉強して良い大学に入ったこと、という意味でもない。僕は、「勉強という一つの物事を必死で頑張ったという過去の経験」こそが、今の自分にとってとても価値あるものだと感じられるのだ。

僕が勉強出来たのは、それが楽しかったからだと思う。
楽しいことだから、もっとやりたいと思う。やった成果を感じたいから、やり方も自ら工夫する。どれだけ時間を費やしても苦痛ではないし、より上を目指そうという気持ちになることが出来る。そう、僕は、勉強を楽しいと思っていたから、勉強に費やした時間を効率よく成績に変換することが出来たのだと思う。

ここで僕が言いたいことは、「やっていることを好きになれ」ということではない。そうではなくて、僕は別に勉強でなくても良かった、と思っているのだ。確かに僕は勉強が好きだったし、楽しかったし、相当の時間を費やして努力した。けど、それが勉強である必要は別になかったと思う。それに費やす時間が楽しいと感じられて、自分で工夫したり、より上を目指そうという意識を持つことが出来るものであれば、何でも構わなかったと思う。仮にそれが勉強でなかったとしても、今の僕と同じように、それをしたという過去の経験が、今の自分を支える結果となっていたはずだと思う。

そう、僕が言いたいことは、勉強も部活も同じだ、ということだ。

『確かに高校を卒業してからも音楽を続ける奴は一握りだよ。やめる奴が大半だよ。確かにそうだよ。なのに必死に練習してるんだよ。勉強も受験も将来もコンクールのことも、二十年も生きていない子供が必死に悩みながら一生懸命やってるんだよ。親や担任に「部活ばかりやるな」って言われて、自分でもその通りだって思いながらそれでも音楽をやろうとしてるんだよ』

小説的に、凄く良い場面だ。僕も、良い場面だ、と思いながら読んでいた。しかし同時にこんなことも思った。

「続ける奴は一握りだよ。やめる奴が大半だよ」というのは、勉強だって同じだ、と。

塾講師や研究者にでもならない限り、学校でやる(やらされる)勉強を、大人になってからもやる人間はいない。因数分解や漢文の読み下しや化学式の暗記など、「やめる奴が大半」だろう。そういう意味で、勉強と部活に大差はない。勉強と部活に大きな差が生まれるのは、受験というものがあるからだ。

本書のテーマの一つは、「ブラック部活動問題」だ。

『今の高校生は大変だよ。部活だけやってても文句を言われ、勉強だけやってても文句を言われ、受験や就職で転けたら自己責任だ』

『俺は、高校時代に吹奏楽にしか一生懸命になれなかった自分を、少し後悔してるんだ』

『あのあと志望校に落ちちゃったとき、僕がブレーキを掛けるべきだったって後悔した』

「ブラック部活動問題」には、狭義のものと広義のものがあるだろう。狭義の「ブラック部活動問題」は、教師が権力に笠を着て生徒を横暴に扱ったりというような、犯罪に近いものをイメージしている。一方、広義の「ブラック部活動問題」は、本人の意思で部活動に邁進しているのだけど、部活動にのめり込みすぎて勉学方面が疎かになってしまう問題全般と言っていいのではないかと思う。そして本書で扱われるのは、そんな後者の問題だ。

しかし、本書を読みながらずっと思っていた。どう考えたって、「部活動」よりも「受験」の方が「ブラック」だろう、と。

学生の本分がいくら勉強にあると言っても、受験というシステムの名の元で、多くの高校生が、その後の人生をより良くするために、巨大な競争に巻き込まれていく仕組みは、冷静に考えれば異常としか言いようがない。部活動であれば、向き不向きを自分で選択できるし、無理だと思えば辞めればいい。まあ、狭義の「ブラック部活動問題」では、辞めさせてくれないという状況もあるのだろうけど、それはここでは措いておこう。広義の「ブラック部活動問題」との対比で考えれば、理系か文系かぐらいの選択しか出来ず、向き不向きを四の五の言っていられず、また無理だと思っても、その競争を諦めることは、ある種人生を諦めることに繋がってしまう「受験」という仕組みの方が、よっぽど「ブラック」だろう。

学歴によって人生が少なからず左右される世の中は、いつまで続くのだろう。もちろん、学歴で判断することは一つの指標にはなる。何故なら、「勉強が出来る」ということは、自分を律し、自分で計画を立て、それを根気よくこなしていくなどの要素が必要であり、「忍耐強さ」や「論理的思考能力」や「作業手順の効率化」などを判断する基準には成りうる。しかし同じ判断は、勉強ではないものへの取り組み方でも判断することが出来る。受験というシステムが、そういう力を見る上で分かりやすいから「学歴」というものが指標として認められているだけで、「学歴」を通じて判断できることは、勉強というフィルターを通さなくても判断できる。


一方で、勉強というのは残念ながら、「創造性」などとは無縁だ。研究者になれば話はまた別なのだろうが、大学程度までで学ぶことなどは、先人たちが長い時間をかけて積み上げてきたものを頭の中に取り込んでいるだけで、取り込む過程に工夫をするなどして「創造性」を発揮することは出来るかもしれないが、たかだかその程度だ。

しかし、部活動は違う。もちろんそこには、先人たちが残した膨大な蓄積はあるわけだが、それらを取り込んださらにその上で、自分がそのフィールドで何をしなければならないかが常に問われているはずだ。スポーツでも芸術方面でも、「創造性」を磨く努力をしない人間が上位に行けるはずがない。

数字など、客観的な指標で公平に判断することが難しい、という欠点が致命的ではあるものの、人間の能力を判断する場合、勉強よりも、部活動で何を成したかを見ることは、その人が持つ可能性をより強く判定できると言えないだろうか。

『君等が千学を卒業するとき、大学に入ってから、社会人になったとき…その先もだけど、とにかく、先々で「あのとき部活なんてやってなかったら」って思ってほしくない』

生徒にそんな風に言わざるを得ない状況を生み出している「ブラック受験問題」の方が、問題としては遥かに深刻であるように僕には感じられてしまう。

内容に入ろうと思います。
茶園基は、“かつて”憧れていた千間学院高校(千学)に入学した。小学生の時、決めたのだ。吹奏楽をやると。そう決めさせたのが、この学校だった。この学校で、神々しいまでに光り輝いていた、吹奏楽部の面々だった。
しかし、中学時代、一度も全日本コンクールに出場出来なかった。
『中学三年間、吹奏楽漬けで。それでも全日本に行けないのに、これ以上何を犠牲にすればいいのかわからなくて、あと三年、同じことをするのを<しんどい>って思っちゃったんです』
千学に入学しても吹奏楽部に入らないと、二歳年上の幼馴染・鳴神玲於奈に伝えると、『あんたは音楽をやらないといけない人なんだから』と言われた。玲於奈は今、千学の吹奏楽部の部長だ。高校で一緒に全日本を目指そうと約束していた。茶園は初めて、玲於奈と道を違えるはずだった。
状況が変わった。かつて強豪だったものの、もう何年も全日本に進めていない千学吹奏楽部に、彼が戻ってきた。茶園を吹奏楽の世界に引きずり込んだ男。千学のチャペルでの演奏会で、茶園の度肝を抜いた人。千学吹奏楽部の黄金時代の部長であり、テレビのドキュメンタリーの特集でまさに中心にいた人。
不破瑛太郎が、吹奏楽部のコーチとして戻ってきた。
茶園は、当然吹奏楽部に入部した。しかし、入部した当初、部は緩みきっていた。瑛太郎も、何か大きく変えなければ現状を変えられないと分かっていた。
『手始めに、部長を一年の茶園基に替える』
その日から、全日本を目指す激動の日々が始まった。
というような話です。

良い小説だったぁ。何回か泣かされてしまった。ストーリーとしては、かなり王道の部活小説っていう感じなんだけど、「部活動」という、物語の中である種イメージが固定化された対象を、「僕らが生きている現実」とすり合わせる際の摩擦を決して無視しない小説、という感じがしました。多くの部活動を扱った物語は、物理学で言う「地面との摩擦は無視するものとする」っていう設定のように、ある種の理想形の中で、「スポーツなどに打ち込む学生の輝きや素晴らしさ」を描く、みたいな暗黙の了解みたいなものがある感じするんだけど、この小説はそういう「地面との摩擦は無視するものとする」みたいな但し書きを排除して、現実と接点を持とうと自覚的である物語であるように感じられました。

それを最も体現するキャラクターが、千学にコーチとして戻ってきた瑛太郎だ。彼はかつて、千学の黄金時代と呼ばれ、テレビのドキュメンタリーでも取り上げられた吹奏楽部員だった。

『じゃあ他に何をしたいのか、何になりたいのか、未だにわからない。強いて言うなら、吹奏楽の世界で、ずっとコンクールを目指していたかったのかもしれない。ずっとずっと、森崎さんが密着していた頃の自分でいたかったのかもしれない』

そんな風に思うほど、瑛太郎は吹奏楽にのめり込んだ。

それから6年の月日が経った。その間に、様々なことがあった。瑛太郎は、「あの頃の自分でいたかった」と思ってしまうほど、今の自分を認められずにいる。『君等が千学を卒業するとき、大学に入ってから、社会人になったとき…その先もだけど、とにかく、先々で「あのとき部活なんてやってなかったら」って思ってほしくない』というのは瑛太郎の言葉だが、これは自分を反面教師にした発言だとも捉えられる。

そんな瑛太郎が、全日本を目指す部を率いる。葛藤は、一入だ。さらに状況を難しくさせるのが、指導者である瑛太郎自身が、部員たちから尊敬の眼差しで見られている、ということだ。

今千学で吹奏楽をやっている面々というのは、大体、千学吹奏楽部が取り上げられたドキュメンタリーを見ている。“あの”千学で吹奏楽をやるんだ、と思っている面々、ということだ。だからこそ、黄金時代の中心人物だった瑛太郎の存在は、部員の多くにとって憧れの存在なのだ。茶園基にしても鳴神玲於奈にしても、それは同じだ。

かつての自分に向けられる尊敬の眼差し。その頃の自分を誇らしく感じながらも、同時に後悔抱いている複雑な感情。全力を出し切りたい部員たちに「人生は吹奏楽だけじゃない」などと分かった風なことを言わなければならない矛盾…。それら難解に絡まりあった混沌が、瑛太郎を襲い続ける。部員たちも、様々な葛藤を抱えながら前進していくのだが、この物語の不安定さを一手に背負うのは、やはり不破瑛太郎だ。彼が、古巣の吹奏楽を率いることでどんな結論にたどり着くのか…。この物語の焦点の一つが、そこにある。

『お前が歩いてきた道を、正しい道にしろ』

しかし、羨ましい、と思う。僕には、全力で打ち込めるものがないからだ。

勉強が好きだ、と書いた。確かにその通りだし、凄く頑張った。でも、当時の自分のことを思い返して見ると、それはある種の逃げだった。後ろ向きに全力疾走しているような感覚があった。今自分が立っている場所から落っこちないようにするために必死でやっていたという部分もあった。勉強をし続けた先を、まったく想像していなかった。冒頭で、「勉強には創造性はない」と書いた。創造性を必要とすることであれば、それ自体が目的となる。しかし、学校程度の勉強には創造性などほとんど必要ないわけで、だからこそ「勉強」というのは目的ではなく手段であるべきなのだ。しかし僕には、「勉強」という手段を駆使してやりたいと思うことが何もなかった。創造性を必要としない「勉強」を、目的に据えてしまっていた。

だから僕は、何かに全力で打ち込める人を、いつも羨ましく感じられてしまう。

『だって…だって演奏できなかったことがこんなに悔しいんだ。最後までやり切って、全部、手に入れてやる』

そんなこと、思ったことがない。

その理由を、ちょっとは自覚しているつもりだ。僕は、全力になれそうなものを、たぶん自ら避けているんだと思う。全力で取り組みたいと思えるようなものがあったら、それがなくなった時にダメージが大きい、と考えてしまう。本書の中でも、様々な人間が様々に敗れ、自分の思う通りの道を進めなくなってしまう展開を見せるが、たぶん僕はそういうのが怖いんだ、と思う。だから、全力で打ち込めるのが羨ましいとか言いながら、片方で、全力で打ち込めるものが見つからなければいい、と思っているんだと思う。

でも、本書のこの言葉を読んで、ちょっと後悔した。

『君達も、よく覚えておくといい。今日という時間がどれだけいいものだったかを決めるのは、明日以降の自分だ。だから、今日のためだけに生きるなよ。明日の自分のために生きろよ』

そうか、と思った。確かに、と思った。全力を打ち込める何かを手放さなければならなくなったとしても、全力で打ち込んだという過去のある瞬間をマイナスにしないために、今に全力を注ぐことが出来る。なるほど、そんな風に考えたことなんてなかったなぁ。

『今日のことなんて、さっさと忘れてしまえ。忘れてしまえるくらい、いい人生を送ってくれ』

改めて思った。全力で打ち込める何かがあるのなら、勉強なんて二の次でいいじゃないか、と。僕は、結婚するつもりも子供を持つつもりもないけど、もし子供が出来ることがあるなら、「負けたら悔しくて号泣してしまうような何か」を自分で見つけられるような奴に育てたいなと思う。


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