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【本】雛倉さりえ「ジェリー・フィッシュ」感想・レビュー・解説

高校という箱庭の中で、純粋に美しいものを追い求める若者たち。おそろしいもの、はかないもの、みにくいもの、とうめいなもの。人それぞれ、美しさへの感受性は異なる者たちが、今目の前にある現実の中から、望みようもなく限定的な選択肢の中から、「最善」ではなく「唯一」を選び出そうとする。若さ故の衝動と、若さ故の諦めが奇妙にないまぜになった5人の若者を描く、連作短編集。

「ジェリー・フィッシュ」
夕子にとって、叶子の存在はすべてだった。クラゲの水槽の前でキスをしたその瞬間から、夕子にとって、叶子との時間だけが唯一だった。けれども、叶子は、夕子以外にも美しいものを見つけてきてしまう。夕子には入り込めない世界に、叶子は行ってしまう。「あたしが本当に好きなのは夕ちゃんだけだから」という言葉に、嘘がないことはわかっているけど。

「果肉と傷痕」
叶子は、祐輔くんに満足できない。叶子は、自分を壊してくれるような衝動を求め続けてしまう。乱暴に、暴力的に、衝動的に。でも、祐輔くんは、優しい。その優しさが、叶子には物足りない。叶子は、祐輔くんとのセックスで、達したことがない。

「夜の国」
眞子は、好きだと言われて付き合っていた相手に「友達に戻ろう」と言われた。そんな時に、朝日先輩と出会ってしまった。眞子が昔読んで大好きだった、でも周りで誰一人読んでいる人がいない本。その本を、朝日先輩は読んでいた。眞子は朝日先輩に、読書部へ勧誘された。図書館のゆるゆるとした空間の中で、杉田先輩も入れた三人で過ごす日々の穏やかさ。

「エフェメラ」
祐輔はずっと、姉の翡翠を見ていた。今は結婚し、子どもを産み、普通の女になってしまった翡翠。子どもの頃は、あれほど輝き、あれほど透明で、まるで神のような存在だったのに。翡翠の子どもである琥珀の相手をしながら、翡翠という名の宝石の輝きについて、想いを馳せる。

「崩れる春」
中学時代、突如イジメられ始めた栞。高校に入って、どうにかみんなとうまくやってこれた。新学期。同じクラスになった宮下さんは、誰とも話そうとしないで孤立していた。昔の自分を見ているようだった。にわかに穏やかではない気分に陥る。宮下さんを助けようとしないは、同罪だ。

情景を切り取る巧さが抜群だ。まるで僕の五感を、著者の五感に接続したかのようなイメージ。視界だけではない、ありとあらゆる感覚の触手を世界に対してゆるりと伸ばしていくことで、「今」を、「その時」を、「その瞬間」を切り取っていく。

『一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。あとに残されたのはゆるやかな坂道だけ。けれどわたしたちは気づかないふりをして、ついばむようなくちづけを幾度も繰りかえした。』

「一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。」という一文だけで、夕子と叶子の関係性を切り取っていく。絶望を内包した夕子は、しかしそれを直視しない。感情の欠片を欠片のまま放置して、元の形を想像しようとしない。そうやって、果てしない日常を突き進んでいく。

『なにもかも全部、あなたのせいだ。あなたの残した傷のせいで、あたしはまた、ひとりになったよ』

自分の求めているものが手に入らない。それは、基本的に満たされた日常の中では、贅沢な悩みなのかもしれない。しかし、叶子にとってそれは、切実すぎる衝動だ。叶子の内側に残り続けている傷は、きっとこれからも叶子を振り回す。叶子に関わる人間をも振り回すだろう。その長い予感が、この短い物語から漂ってくる。

『必ず終わるときがくるのだと十七歳のわたしたちは知っている』
『始まりもなきかわりに終わりもないのだ』

何も求めないことが正しいと信じる眞子。手に入れたものは、すぐに蒸発してしまう。高校生はそんな環境にいると知っている。未来は、適度に分断されていく。ここから永遠に、何かが地続きでいられるとは思えない。見えない予感、見たくもない予感、見えてしまう予感。そうしたものに取り囲まれながら、少女たちはそれでも「今」を懸命に手探りで見つけようとする。様々な「予感」でぎゅうぎゅうに溢れ、もはや何も詰め込めないのではないかという「今」を。

『ぼくには理解できない。女とい生きものの仕組みが、湿り気を帯びた狂気の根源が、じぶんの子どもを生むという感覚が、そしてそのすべてを孕んでなお、柔らかくて細くて華奢な骨格が、理解できない。生きるためだけにつくられたはずの器官が、どうしてこんなにも美しいのだろうか』

祐輔は、狂気の狭間で立ち止まる。狂気を身にまといながら、その超然たる美しさのために存在を許されていた姉を見て育った祐輔は、常に狂気の世界と隣り合わせにいた。しかし、祐輔には、その狂気へと踏み出すことが出来ない。狂気の世界に憧れ、姉のがらくただらけの部屋を羨みながら、自らの体は現実に固定されている。祐輔のこの独白は、祐輔の言い訳かもしれない。しかしこれはまた一方で、著者の本心でもあるのかもしれない。


『彼女も、あのときの記憶にしがみついて生きているのだと思った。治りかけた傷口を何度も何度も弄って、その痛みで自分を支えている。自傷をやめ、傷が完治したそのとき、わたしたちはこの狂おしい痛みを忘れて、ほんとうの大人になるのだろう。そしてその日はきっと、そんなに遠くない』

辛い過去から逃げていると信じていた栞。逃げることだけを考え、それに成功したように思っていた。でもそれは、言い訳でしかなかった。本当は、逃げているのではなかった。自分の肌身から離れないように厳重に紐で繋いで、それでただ走り回っていただけのことだ。その自分を受け入れる。少女にとって、そこが新たなスタート地点だ。幸いなことに、同じスタート地点に立っている少女が、近くに寄り添っている。

「好き」という概念が、少しずつ違う響きを帯び、やわらかく拡張し、ゆったりと拡散し、次第に薄まっていく。少女たちの「好き」は、それぞれに向いている方向が変わり、望むものも違う。「好き」という言葉で伝わる感情もまったく違う。同じものを見ているようで、まったく別のものを見ている。見えていると信じている現実がずれていく。
「好き」に、正しいも間違っているもない。しかし、一般か特殊かという見え方の違いはある。特殊な「好き」は、先が尖り、人を傷つけ、自らをも傷つけていく。少女たちの「好き」は、やがて落ち着きどころを見つけ、固着し、穏やかな雰囲気をまとうのかもしれない。子どもを生んだ翡翠のように。しかし、17歳の少女には、まだそれは難しい。
17歳。未来の方が、まだまだ圧倒的に広い。どんな未来が展開されようとも、時間を重ねていくごとに、17歳だった頃の自分は、全体の時間の中でどんどん薄まっていく。大人になるにつれて、子どもの頃の気持ちを手放していく。
でも、そんなことを少女たちに言っても仕方がない。17歳のその瞬間は、少女たちにはすべてだ。

『結局わたしたちは、非日常にはなりきれないのだ。どこまでも平凡な、ありきたりの、少女たち。鑑に映った自分自身に恋していただけの女の子』

感覚の鋭い者たちが、分かり合える奇跡。自分にしか届かないと思っていた言葉が、誰かにも届く奇跡。

『ようやくわかった。映画を観たり小説を読んだり、そういう完成が備わっていないひとたちに何を言っても無駄なのだ。きっと彼らは一冊の本を読みきったこともないし、古い映画の美しさも知らないのだろう。そういう世界の素晴らしい部分を何ひとつ知らないし、これから先も理解することはないのだろう。なんて、かわいそうなひとたち。』

少女たちよ。自信を持って、輪から離れればいい。確信と共に、孤独を選べばいい。どうせ、大人になれば、みんな、のっぺらぼうの、同じにんげんになってしまうのだから。

『大人はみんな馬鹿だ、と思う。じぶんが大人だと信じている人間は、どうしようもなく馬鹿だ。世界は自分の思うままに動いているだなんて、どうしてそんな風に思えるのだろう。なにもかもうまくいっていると、どうして信じこむことができるのだろう。こんなにも、ままならないのに』

こうやって、大人になることへの不安を吐露するのだ。
イメージの表現が絶妙だ。著者が描いているのは、人でも場所でもないように思う。著者が描き出しているのは、登場人物たちの周囲を取り巻く空気そのものだ。無色透明、臭いなし。そんな空気に、色を感じ、匂いを嗅ぎ、撫で、耳をすまし、舌を這わす。そうやって著者は、見えないはずの、触れられないはずの、どうやっても伝えられないはずの空気そのものの輪郭を捉えようとしているように思う。
そして、著者が描く「空気」は、「今っぽさ」を内包する。
「今っぽさ」を表すような、具体的な固有名詞はほとんど出てこない。けれども本書は、どうしようもなく「今っぽさ」がにじみ出る。それは、僕らが今こうして息をしているこの世界と、小説内の世界が、同じ地続きにある、そんな風に思わせてくれるからかもしれない。
このどうしようもない「今っぽさ」が、本書を切実なものに仕立て上げる。過去の話でも、未来の話でもない。過去の自分の体験と似ているわけでもなく、未来に自分に起こるかもしれない出来事を予感させるのでもない。まさに僕らは今そこにいて、そこで体感している。そういう圧のようなものが、紙幅から押し寄せてくるようにも思う。この作品は僕らを「今」に引きずり込もうとする。それは、今を生きている実感のない人であればあるほど、強く感じられるものかもしれない。
一読して、窪美澄「ふがいない僕は空を見た」を連想した。どちらとも、「女による女のためのR-18文学賞」を受賞してのデビューだ。
「ふがいない僕は空を見た」は、絶望から抜け出すためにもがく若者が描かれる。どん底にあって、それでも生きている。生きていると叫ぶ。私はここにいるんだと主張する。その切実さが絶妙に切り取られていく。
本書は、「ふがいない僕は空を見た」を連想させる物語だが、作品の有り様は大分異なる。本書は、ぬるま湯のようなほどほどに満たされた日常の中で、捉えどころのない空白に気づいてしまった若者たちの物語だ。絶望的な境遇に生まれたわけでもない。日常に不安が渦巻くわけでもない。未来への希望が持てないわけでもない。しかしだからと言って、平穏なわけでもない。
少女たちは、ある一定の平凡さを身にまといながら、緩やかに孤立する。世界の輪郭を狭めていく。そうする中で少女たちは、空白に気づく。自分がずっと抱え続けてきた空白に。あるいは、空白と再会する。消し去ったとばかり思い込んでいた空白と。

『いつか大人になってしまったとしても、この瞬間に十七歳のわたしたちがたしかに存在していたことを、いつまでも覚えておけるように。わたしは見つめつづけた。』

僕はここまで、とある事実を伏せたまま文章を書いてきた。やはり、それには触れないことにする。本を見れば分かってしまうけど、余計な先入観を持つ必要はない。凄い新人が現れたものだ。これからどんな作品を生み出していってくれるのか、楽しみで仕方がない。やはり、「女による女のためのR-18文学賞」は、異才を発掘する場となっている。物凄いきらめきを放つ新人の登場です。是非、心して読んでみてください。


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