【映画】「ひとよ」感想・レビュー・解説

同じ状況にいたら、自分だったらどうするだろう。やはり、そう考えてしまう。

母親と同じ立場だったら?子供に暴力を振るう夫を、殺すだろうか?難しい。

「人を殺すことはどんな状況であれ悪」という立場を、僕は取らない。「殺す」という選択によってしか、現実を変えられない状況はあり得るし、殺さなければ自分が殺される、という可能性だってあり得る。実際にするかどうかはともかく、「殺す」という選択肢は、誰しもが持っていて当然のものだ、と僕は考える(当然、逃げたりごまかしたりするのはダメで、法律で殺人が明確に制限されている以上、相応の罰は潔く受けなければいけないし、自分の「殺人」という行為によって生じた不利益に対しては、生涯償う覚悟は必要だ)

さて、「殺す」ということのマイナス要素もすべて受け入れ、対処する、という覚悟を持った上で、殺すのか殺さないのか、ということを検討してみるのだけど、やはりなかなか難しい問題だ。一つ確かなことは、僕は、自分の被害のために誰かを殺すことはないだろう、ということだ。あり得るとしたら、誰かを守るために殺す、という、この映画の母親と同じ状況の時だけだ。

となると、「殺す行為」が「守る行為」になるのか、という点に問題が集約される。

この映画でも、まさにここに焦点が当たる。

【親父が生きてる方が簡単だった。暴力に耐えてればいいんだもん】

複数の選択肢を同時に選べることももちろんあるが、「子供に暴力を耐えさせるか」か「夫を殺す」かは、どちらか一方しか選べない。子供の一人は、「暴力に耐える方が簡単だ」というが、厳密には、比較できるわけではないから判断は困難だ。暴力から解放されたからこそ、「暴力に耐える方が簡単だ」と言える、という側面は間違いなくある。

一方しか選べない、結局どちらかの道にしか進めない、というのは、決断を躊躇させる。「殺す」ことが、確実に「守る」ことになるのなら、きっと僕はそういう決断をするだろう。しかし、「暴力」は永遠ではないが、「殺人犯の子供というレッテル」は一生だ。その、永遠にも似た時間軸に、守るべき人を放り込むことが、「守る」ことになるのか。

難しい。

自分が、子供の立場だったら、母親を恨むだろうか?それとも、感謝するだろうか?これもまた難しい問いだ。

やはり、「殺人者の子供」というレッテルは、非常に重い。この重さは、「目に見えない」という部分も大きく関わってくる。

「暴力」というのは、視覚的に伝わりやすい。暴力を受けている場面や、暴力を受けた痕など、暴力というのは視覚的に伝わる。もちろん、隠そうと思えば隠せるが、暴力によって受けたダメージというのは、絶対に隠すという強い意志でもない限り、自ずと周囲に伝わるし、周囲も心配しやすい。


しかし、「殺人犯の子供」というレッテルは、視覚的ではない。視覚的ではないから、当人が辛さを感じていても、それが相手に伝わりにくい。また、視覚的でないからこそ、心配していることを当人に伝えにくい、という問題もある。暴力であれば、問答無用で心配できるが、殺人者の子供というレッテルを貼られているという状況は、当人がどの程度思い悩んでいるかを推測できないと、なかなか心配を伝えにくい。当人が想像以上に気にしていないかもしれないし、逆に、想像以上に気に病んでいるかもしれない。当人の受け止めの程度が分からなければ、心配の表明の度合いも計れないし、だからこそ、「扱いにくい」という雰囲気になってしまう。

一方、「暴力」は、肉体的な破滅をもたらす可能性がある、という点で危険だ。乳幼児への暴力や虐待で死んでしまうというニュースがよく流れるし、乳幼児でなくても、暴力によって重篤な怪我や障害を負う可能性もある。仮に失明したとすれば、「殺人者のレッテル」と同様、一生のしかかる困難さとなる。

果たしてどちらが良いのか。

一つ言えることは、「暴力の黙認」も「殺人の実行」も、母親の決断と受け取られる、ということだ。そして、同じ「決断」だとすれば、「暴力の黙認」は、子供からすれば残酷と言えるだろう。「未来に重きを置く」という判断基準もあるし、であれば、殺人という行為が誰かを守る行為になるのかを考えればいい。しかし、「子供への愛を伝える」という判断基準もある。その場合、「暴力の放置」よりは「殺人の実行」の方がより良い可能性もある。

そういうことを色々考えながら、映画を見ていた。

自分だったらどうするだろう?分からない。分からないけど、僕がいつも考えてしまうことは、「こういう決断をしたくないから、「家族」というものと関わりたくない」ということだ。「家族」という単位には、もちろん、喜びや楽しさがある、ということも分かっているつもりだ。しかし、「家族」だからこその苦しさや辛さもある。どっちに転ぶかは、正直、運次第だ。運良く、喜びの方に転ぶならいい。しかし、苦しさの方に転んだら、しんどい。そういうリスクは負いたくないなぁ、といつも考えてしまう。

【今、自分がしたことを疑ったら、私が謝ったら、子供たちが迷子になっちゃう】

自分の決断が、誰かの人生を左右する可能性がある。そんな場所に、僕はいたくない。そういう意味で、そこまでの覚悟を持って家族を作ったかどうかはともかく、家族という単位を守り、維持しているすべての人は、凄いなと思う。

内容に入ろうと思います。
15年前、稲村家の母であるこはるは、夫をタクシーで轢き殺した。三人の子供たちに、日常的に苛烈な暴力を振るうからだ。彼女は、父親を殺したと子供たちに伝え、これから自主すると告げた。そして、「15年経ったら必ず戻る」と言って、土砂降りの雨の中、警察署へと向かった。
15年後。子供たちはそれぞれの人生を歩んでいた。実家を出て東京で暮らす次男の雄二は、エロ本のライターをしながら小説家を目指している。長男の大樹と長女の園子は、実家のタクシー会社併設の家で暮らしている。大樹は勤め人となり、園子はスナックで働いている。雄二は、実家に寄り付かないばかりか、兄弟とも連絡をほとんど取らない。そして、パソコンに、実母の犯罪についてのルポ記事を保存している。自身の名前を売るために、母親の事件を踏み台にしようとしているのだ。

事件からちょうど15年後の夜、実家の入り口を叩く音がする。大樹と園子が不審がって見に行くと、そこに母親が立っていた。大樹は困惑を隠さないが、園子はすぐに母親を受け入れる。そして、雄二にも母親の帰還を知らせ、久しぶりに家族4人が実家に揃うこととなった…。
というような話です。

上述の設定をベースにして、じわじわと展開する物語が、重厚かつ考えさせられる内容で、見入ってしまいました。「母親が殺人者」という、決して日常にありふれた題材ではないにも関わらず、見ている人の心を掴む物語だと思います。それは、「家族のままならなさ」を描いているからだと思います。母親が殺人者かどうかはともかくとして、家庭内には、それぞれの家庭独自の問題が横たわっている。そしてそれらは、どれも、固有の困難さを持っている。その困難さを、母親が殺人者という特異な設定を持ってくることで包括的に描き出そうとしているという感じがするし、それは非常にうまくいっていると感じます。

こはると三兄弟の関係については冒頭であれこれ書いたつもりなので、それ以外のことを書きましょう。この映画では、稲村家の話にオーバーラップさせる形で、他の家族のことも描かれる。具体的に、誰のどんな家族なのか、ということはここでは触れないが、それぞれが、「稲村こはるが犯した殺人」と何らかの形で関わってくる。こはるの殺人行為がなければ防げたかもしれないこと、こはるの殺人行為を周囲の人間以上に肯定しようとする者、こはるの殺人行為が現実に与える悪影響など、様々なところで「こはるの殺人行為が中心」になる。どれも簡単に答えが出せる問題ではないが、やはり感じるのは、「殺人という行為が、直接・間接的に周囲に与えてしまう影響」についてだ。「殺人」というのは決して、加害者と被害者だけの問題ではない、ということが、改めて実感させられる。どんなものであっても、ある面からは正しくある面からは間違っている、ということはあり得るが、殺人ほどそれが顕著に現れるものもなかなかないだろう。

そのことは、こはるの扱われ方にもよく出ている。こはるは、殺人を犯した過去を持ちながら、周囲の人(タクシー会社の従業員など)はこはるを優しく迎え入れる。それは、こはるの夫の暴力があまりに苛烈であり、こはるの行為はやむを得ないものだった、という共通認識があるからだ。こはるの周囲にいる人間(三兄弟はともかく)は、こはるの殺人行為を、基本的には肯定し、受け入れている。

しかし当然のことながら、こはるのことを直接的に知らない人間からは、嫌がらせを受ける。どんな事情があれ殺人は許されない行為、という価値観を持つ人ももちろんいるだろうし、それは正しいことだと思う。しかし一方で、そもそもこはるが置かれていた状況をきちんと知ろうともせずに、雑誌やネットの情報だけからこはるを断罪しようとする者もいる。この映画では、そういう側面についてはあまり深く描かれないが、様々な場面から、タクシー会社や三兄弟が、世間からのそういう視線にさらされ続けてきた、ということが伝わる。

この両極端の状況が、三兄弟を難しい立場に置く。彼らの内面で渦巻く感情は非常に複雑だが、さらにそこに、「戻って来た母親は、周囲に優しく受け入れられている」という状況が加わることになる。周囲の母親に対する扱いが酷いものであれば、三兄弟も「気兼ねなく」母親に対する感情を出せるかもしれない。しかし、母親が周囲から受け入れられている、という状況があるだけに、ややこしくなる。母親は子供たちのために大きな決断をしたのに、その子供たちが母親を受け入れないとは、という見られ方をされてしまうことは必定だからだ。

そういう状況の中で、三兄弟は、自らの感情と、外的な要因とに翻弄されつつ、母親との関わりを模索していくことになる。

【これは母さんが、親父を殺してまでつくってくれた自由なんだよ】

あの場面で、あの人物がこういうことを言うか、という印象的なフレーズで、変な表現だが、その瞬間、色んなものを「許せる」ような気分になる。

【自分にとって特別なら、それでいい】

そうだな、と素直に思える言葉でした。

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