「VTuber」について今一度きちんと考えてみる

いまや一大コンテンツとなった「VTuber」。コミックマーケットにもVTuber島が現れ、国内のVTuberファンの数は300万人とも1000万人ともいわれている。
膨れ上がり、数多のコンテンツが生み出されては消えていく現代社会の中で、これほどまでの「カテゴリ」が現れたことは非常に驚きである。

諸事情があり、僕は「VTuber」というカテゴリに関しては一家言ある。VTuberのことばかり考え続けていた時期が4年ほどあり、寝ても覚めてもVTuberVTuberだった。
いま、少しだけそのVTuberという世界から離れたので、いちど2023年8月時点での「僕の中のVTuber」について丁寧に書き記しておこうと思う。


結論を端的に言えば、僕にとってVTuberは「インターネット上に人格を担保したデジタル存在」だと考えている。
そしてその考え方は決してVTuberに限定せず、SNS全般に当てはまる。
じゃあいったいVTuberとはなんなのか。

「インターネット上に人格を担保」とは、人格を担保するーー言い換えれば「人格を表現する過去と現在」と言える。僕をネット上で理解するためには僕の過去と現在の言動を理解しなくてはならない。対人コミュニケーションも同じだと思う。クラスメイトと友人になるには積み重ねていった対話や経験があって初めて友人になれる。「インターネット上に」とするのは、僕を表現するのが文章であり、声を通じたものであり、インターネットを媒介しているからだ。
「デジタル」とは「非連続性」を意味している。アナログ時計は連続する時間を文字盤で表現したものだが、デジタル時計はそもそも連続する中野「その瞬間」しか見えない。
デジタル存在というのはつまり、「その場その瞬間を切り出した存在」という意味だ。

「インターネット上に人格を担保してデジタル存在になる」というのは、とどのつまり「SNSを使う」と、ほぼ同じことだ。
誰しもがSNSを使う。そして、そのSNSを「私が使っています」という証明はできない。
ではその「SNSを使う」と「VTuberである」の境目はどこにあるのだろう。

例えば僕が「しろごはん」という名前でSNSを始めたとして、Twitterで「これが僕です」と自撮り写真を投稿したとする。
その「僕」は果たして本当にしろごはんなのか。証明する手立てはあるのか。ネット上で拾ってきた自撮りではないと言い切れる確証はどこにもない。
声にしたってそうだ。街を歩いていたら聞き覚えのある声が聞こえた。SNSで見たしろごはんさんだ!そう思って声をかけてみる。しろごはんさんですよね!いつも配信観てます!
声をかけられた人は困惑する。「違いますけど……」
それもそのはず、その声をかけられたのは僕の弟だ。弟は声が僕にそっくりで、マイクを通すとどっちがどっちだかわからなくなる。さらに都合が悪いことに、僕の父も声がそっくりだ。少なくとも同じ声に聞こえる人間がこの世に3人いることになる。
生まれて初めて「銀魂」のアニメを観たとき、主人公の坂田銀時の声は子安武人さんだと思った。でも、エンドロールには「杉田智和」の名前があった。僕は当初この二人の声を聴き分けられなかった。
「ルパン三世」だって声優が2人いる。聞き比べてもわからない(もちろん本腰を入れれば違いはわかるのだが……)。

姿かたち、声という2大要素を現実で見つけたとして、それをSNSのユーザー本人であると言い切れる根拠が一切ない。
人はみな、「この名前、この言動だから、この人はAさんなのだろう
という、ふんわりとした盲信を確信と勘違いしたままSNSを使っている。


VTuberもここまでと同一のことが言える。
「VTuberの中の人」「魂」「前世」といったメタな概念があるのもわかる。それは理解している。
だが、SNSユーザーとVTuberが根本的に異なっている点はどこか。

それは、「生誕」「成長」の要素がインターネット上に担保されているという点だ。

「人格」とは、ある日突然手に入るものではない。生まれ、生きていくなかで徐々に形成されていくものである。体が大きくなってからも、周辺環境で人格が変わることはよくある。
自分の人生の過去が形成しているものが「人格」、過去は人格に表れている。

「VTuber」が良いのは、それまでの人格形成の過程をすべて超越して、メタ要素をすべてすっ飛ばし、「インターネット上に人格を担保したデジタル存在」を作り上げることができる点だと思う。

自分が生きてきた人生は常に自分に付きまとう。しかし、VTuberである瞬間だけは、そこから解放できる。

この「過去=人格」を新しく持てる、というVTuberの要素に救われている人は僕らが思っているよりずっとずっといる。
外見にコンプレックスがあった人、見た目と声のギャップに悩んでいた人、そんな悩みをすべてすっ飛ばし、「人格」としてインターネット上に存在できる。
こんなに大きな利点のあるものが今まであっただろうか。正確な話をすればないわけではない。顔を出さずに自己表現できる部分はいくらでもある。だが、自己表現を通り越して「存在できる」ことに意義がある。

もちろん、活動には経験値が必要だ。自分が今まで積み上げてきたもの以外はすべて初心者。口から出る言葉は自分が蓄えてきた語彙。優しさとか心配り、カリスマなんてものは後から手に入れるのは難しいかもしれない。
でも、自分の人格とは別個に、手に入れられるかもしれない。成長ができるかもしれない。

生きているとどうしても自分の過去の経験を引きずる。でも、新しく誕生した人格であれば、そこに自分の過去を投影する必要はない。
で、あるならば、当然理想の自分への成長の可能性だって残されている。

インターネット芸人であるがゆえにメタな自分を積極的に引き出してきて活動しているVTuberもいる。生身を晒したり、「2.5次元」という言い方をしたり。だが、それはVTuberのある一側面でしかない。アバター配信者という側面だけを切り取ったに過ぎない。2次元のかわいい・かっこいい・好きなアバターで活動できるというのもまた、VTuberの醍醐味である。

アイドルを応援する人のなかには、「推しが成長していく姿を見るのが楽しい」というタイプのオタクがいる。
VTuberのなかには、そういう目線で見ることができるタイプがたくさんいる。
僕はそういうタイプのVTuberを応援していきたいし、「VTuber」と呼びたい、と思っている。


思っていることを次々と書き出した結果、散文になってしまった。
ぜひあなたが思う「VTuber」を教えてほしい。
あと、推し誰?


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