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まわる男引きずる女飛ばないカラス

*Today
血色の悪い口びる色のアパートの前に掛布団がくしゃっと置いてある。
 近寄れって見れば、それは、狭苦しく並ぶ玄関扉と扉の間に、くたびれたパジャマ姿の男が雪隠座りをしているのだった。
 男は道を近づいてくるわたしと犬など目にはいっていない様子で、ほうけた顔をこちらにむけて煙草をくわえている。
 わたしにとって、希望に満ちるほどではないものの、すがすがしいと感じる朝が、あの男と共有できていないことはわかる。
 男は一晩じゅう悪夢にさいなまれ、曙光によってようやく解放されたのかもしれない。一晩じゅう女に求められつづけ、さらに求めてくる女に一服の休憩をもらえたのかもしれない。いづれにしても、その姿からは、男の絶望の夜が明け、絶望の一日が始まることが理解できた。
 わたしは、男の前を左へ曲がり、いつものように、いくつかの公園を経て土手へと続く道に入る。
 先刻の男をだらしないとか自堕落だなどとわたしに言うつもりはない、あの男が一晩じゅう女を満足させて役立っていたとするならば、わたしにはできない。そればかりか人の役に立つような、ましてや社会に貢献するような仕事もせず、子どもたちは独立し、ツレアイは自立している。もとより、結婚してから今日まで、ツレアイのためとか子どものために歯を食いしばったことなど一瞬たりともない。あったとすれば自分のためだ。その結果、わたしの知らないところで、誰かの役に立っているなどという、あずかり知らない結果が生まれていたしてもだ。 
 家族のためと口にする人間がいることは知っているが、本気なのかと疑っている。家族のため誰かのためといっても、つまるところそれは自分のためではないか。自分のためというと人に嫌われるから言い換えているだけではないか勘繰っている。もちろん、下種の勘繰りで無駄に敵を作ってもしかたないので黙っている。
 近頃は、わたしのそのような気持ちを察してか、犬にも頼りにされている気がしない。わたしのいまのありようは当節流行の自己責任で、文句を言うつもりもない。
 ただ、自分や相手の勘違いにせよ、だれかに頼りにされ、犬の糞拾い以外に役に立っていると感じないと、この世とのつながりが希薄となり、ふわふわするのだ。ふわふわしたまま余命を生きてよいものだろうか。そう、ちかごろのわたしはふわふわしている。
 朝の住宅街とはいえ、静かだ。年がら年じゅう四六時中あれほど賑やかなこの世界が、いぶかしさを覚えるほどに静まり返っている。
 無音ではないが、気配が消えている。行きかう人もなく、車も通らない。足元の犬も鳴かず、開け放たれた窓から漏れてくるテレビの音もない。
 同じ静けさを感じたことがある。
 夏休み明けの登校初日、だれにもあわず、日を間違えたか、と不安に思った、あの時と同じだった。
 角を曲がって出てくる同級生の姿を探したとき、ふいに音が蘇った。壁の向こうの火葬装置が運転を始めたのだ。
 とたんに周囲の風景はいつもの景色に戻った。
 その、はずだった。

   - 1 -
わたしと犬は火葬場裏の公園に入っていった。
 営業開始前、火葬装置が起動すると、排気に混じり、前日の残り香が鼻に届くことがある。わたしは、香木のような生臭い香りとともに、ガス化された多くの人を肺に取りこみながら、公園の歩道を巡っていく。
 この公園は、火葬場職員官舎の跡地だという。そのころを知っている婆は「官舎の庭の野菜は良く育った」と言って、「ひひっ」と笑いをつけ加え、続けて、「やっぱり灰を撒くからかね」と罰当たりな一言でしめくくる話を一年に一回はしていた。日本全体が貧しかった当時、自分は官舎の人間を呼び出し電話替わりにしていたくせに、食えない婆であった。
 わたしの子ども時分は、風呂屋のような煙突から煙を吐いていた。子どもらは校庭からそれを見て「今日は白だ」「やけに黒いなぁ。太っちょか」と言っていたし、風向きによっては臭気もやってきた。臭気で煙突を見やることもあった。
 いつのまにか周辺に家が建て混み、火葬場が迷惑施設になると煙突は消え、臭気も格段に少なくなった。職員も勤め先が火葬場だとわかると不都合が生じたり、子どもが陰口を言われるようになったのか、官舎は取り払われ、公園になった。
 いまでは煙突もなく、殺虫剤が虫ケアと言い換えられたように、斎場と上品な名をつけられ、炉のある建物も火葬を待つ施設も低層構造のため、最初の開設から一世紀近くを経た樹々に囲まれ見えない。知らない人は庭園型公園と思うにちがいない。
 火葬場裏手の公園は、サッカーや野球ごっこをやる程度に広い遊具のない土むきだしの広場を囲むように散策路があり、そのところどころにベンチが置いてある。
 今朝も幅二〇メートルほどの広場を横切る一直線の足跡をみつけた。

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