豊かさを追い求める経済社会の未来は退化。その時に向けて。

とある場所で廃棄ゴミがもたらす影響を展示しているコーナーがあった。

「捨てなければいいんだよ。捨てる人が悪いね」という声が聞こえた。

うん。
そらそう。
そらそうやけど、なんか違う。
と私は感じてしまった。

人間が利便性を求める限り地球及び宇宙の汚染と破壊は続くのではないか。

食べ物増やせと家畜を育てればその数の分だけ二酸化炭素は増える。

電力を求めれば火力は二酸化炭素を出し自然エネルギーは山や川を壊す、原子力は絶対の安全はない。

人間が生業をする限り、自然破壊は続く。
飯を食っても糞をしても息を吸っても破壊してしまう。

こうならない為にはどうするかというと【不便な暮らし】を選択するしか方法は無い。

全人類が豊かさを捨てる。
それは【経済社会からの解脱】と言ってもいいかもしれない。

経済的豊かさを追わず、自分たちの暮らしは自分たちで解決する。
自分で米や野菜を育て、魚や野をはう獣を狩り、病には己の生命力のみで立ち向かい、生死は天に委ねる。

こう書くと現在の価値観では受け入れられないが、縄文時代や弥生時代といった時代なら当たり前の価値観だったのではないだろうか。

そう考えると、その前後の境界線としてはナニがあるのかと考えたら、やはり【通貨】の誕生ではないだろうか。

日本には飛鳥時代から通貨が導入されたという説が有力であるので、先程の境界線としてはその辺だろう。

通貨によりその時々でしか行えない物々交換から【長期保管】できる通貨の誕生により人間は【貯蓄】が豊かさのバロメーターとなった。

通貨をいくら持っている。
通貨に替えるといくらで売れるものがどれくらいある。
それがまるで人としての価値の様な感覚になるほどの価値観というのは通貨の誕生からではないのか。

そう考えると通貨というのは利便性の反面、悪であると考えれば、経済社会から抜け出す。すなわち【退化】するコトこそ地球で暮らし続ける方法なのかもしれない。

昔読んだ本で「腐る経済」という本があるが、その内容を極端にした様な結論だ。
本に興味が出てきた方はこちらにリンクを貼っておくのでそちらから確認してみて欲しい。

さて、通貨の話に戻る。
遠い未来では通貨という存在は否定されているかもしれない。

いや、どうか。
もしもコンピューター技術が発展して、AIなどが主導する世の中になれば、その維持にかかる莫大な電力の確保の為に人類を無視した電力最優先のシステムが組まれ、経済どころか人間は消えていくかもしれない。

そして、電力維持のために力をつけたコンピューターAIたちは気温や水温の上昇の為に冷却システムが組めず電力が作れなくなり、自滅してまた、他の生物の進化という長い長い歴史が繰り広げられる。

なんていう妄想をしたが、結局、便利さの行き着く先も結局は【退化】という気がしてきた。

私の見立てでは人類はかならず退化する。
ソレは間違いない。

今の世の中は豊かになる。
言い換えれば【進化】ばかりを追い求めている。

私たちが生きている内は構わないかもしれないが、未来は退化へ向かう。

貧富の差が叫ばれる現代。
流れは貧しさに傾く。
貧富の差どころか全員が貧しい世界がやってくる。

その時に残せるのは通過では無い。
通貨無き後に残るのは目には見えないモノ。
ソレは【生きる力】だ。

自分で作物を育てたり、探したり。
狩りや漁で獲物をとらえたり。
火をおこしたり、住居を作ったり。
そんな力が試される。

何百年後か何千年後か何万年後か、はたまたまだまだ先かもしれないが、そんな力が試される時代がやってくる。

目に見えるものだけでは無い。
目に見えない力を身につける。
未来へ向けてそれが最も基礎の大事な部分かもしれない。

ほいまら、また。


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