見出し画像

平安時代~昭和まで お坊さんの学校 「常法談林所」

前回の投稿では、主に諏訪神社(諏訪大社)の別当社務職という事について書きました。 

今回はお坊さんの学校 「常法談林所」(しょうほうだんりんしょ)について解説していきたいと思います。

画像1

当山には「由緒書」が残されていて、当山の開山の伝承として「弘法大師により学問の道場とされた」といわれています。そして、「信州教相談林の最初、松橋事相伝授の権與」と書かれ、信州の学問所の最初であり、松橋流という流派の重要な場所という意味が書かれています。ただし、記録としてしっかりわかってくるのは室町時代からとなります。ここでは記録が残る室町時代から見ていきたいと思います。

醍醐寺 無量寿院 松橋流 伝授道場

まず、お寺には「法流」という流派があり、仏法紹隆寺は京都の秀吉の花見で有名な「醍醐寺」の中にある、天皇家に繋がる門跡寺院という格式を持った「無量寿院」の流れをくむお寺で「松橋流」という流派を継承するお寺でした。

画像13

松橋流は東国(関東方面)の真言宗のお寺で大流行した法流で、高尾山薬王院なども松橋流のお寺でした。

松橋流を関東に弘めたお坊さんは「俊海」という僧侶で「関東元祖」と称される偉大なお坊さんでした。その俊海が関東に法流を弘める最初の拠点としたといわれるのが「仏法紹隆寺」とされています。仏法紹隆寺には俊海直筆の御遺告(ごゆいごう)という弘法大師の遺言書が残されています。

遺告(巻子本)奥書

その後、醍醐寺から「灌頂道具」というお坊さんの重要な儀式である灌頂(かんじょう)を行う道具を置くことを許可され、修行と学問所として信州を代表するようなお寺になりました。仏法紹隆寺は信州4ヶ寺道場随一と呼ばれるほどでした。

12天

灌頂道具 十二天のうち 日天 室町時代

曼荼羅 金

大曼荼羅 金剛界 室町時代

曼荼羅 胎

大曼荼羅 胎蔵 室町時代

偉いお坊さんとの繋がり

京都醍醐寺から関東方面へ教えを伝えにくる偉いお坊さんたちが仏法紹隆寺で色々な教えを伝える儀式「伝授」や「灌頂」を行っている記録が国宝の醍醐寺文書の中に残されています。お坊さんたちが、諏訪地域だけではなく多くの地域から仏法紹隆寺へ学びに集っている様子が古文書に残されています。

画像11

智積院 玄宥僧正の書状

また、現在、真言宗智山派の本山である京都智積院を開いた玄宥というお坊さんが仏法紹隆寺の住職であった尊朝に智積院へ来てくれないかという手紙を送ったこともわかっていますが、尊朝はその要請を断り、仏法紹隆寺において僧侶の育成や真言宗寺院の発展に尽力いたしました。

江戸時代の様子

江戸時代になると信州甲州にわたる学問所と称され、諏訪神社(諏訪大社)に併設されていた神宮寺はもちろん、多くのお寺から仏法紹隆寺へお坊さんたちが学びにきます。記録では多い時で190人ほどのお坊さんが学んでいた記録が残っています。

そして、学問所「談林所」の中でも格式が高い「常法談林所」という寺格を持ち、信州の真言宗寺院で筆頭の格式を持つようになります。下の画像は明治初年に寺院を再調査した際の記録です。

画像6

また、諏訪神社(諏訪大社)の神宮寺も仏法紹隆寺に並ぶ格式を得るために「談林所免許の願い」を出しましたが、訴訟になり神宮寺は談林所になれなかったという歴史もあります。

画像12

江戸幕府が真言宗の筆頭寺格に出した「真言宗法度」(真言宗のきまり)

江戸時代の記録には諏訪地域の多くの真言宗のお寺が仏法紹隆寺の末寺(本山を仏法紹隆寺とする)となり、諏訪以外のお寺にも末寺があり、田舎本山(中本寺)となりました。また、仏法紹隆寺で学んだ僧侶が全国各地のお寺の住職となり、仏法紹隆寺の流れをくむお坊さんが全国で活躍しました。

常法談林所から能選談林へ

明治時代になると智積院を本山とする真言宗智山派が起こり、仏法紹隆寺は古来からの縁で智山派に属するようになります。その際に智山派を率いる僧侶「管長」になる事ができる格式であり、談林所の中でも優れた道場という意味の「能選談林」という格式を持ちます。1位から35位まである格式の第5番目の全国屈指の寺院となっていきました。

画像2

真言宗の各派が次々にできる

第二次世界大戦の後、真言宗は多きく分けて18派に別れていきました。その際に仏法紹隆寺は高野山真言宗から招請を受け、また、古来よりの高野山金剛頂院などの縁により高野山真言宗へ属することを選びました。

その後、僧侶の養成は本山で育成機関をつくり、本山の法流を教えて僧侶を育てるというような仕組みができ、地域で僧侶を養成する必要がなくなると共に、各お寺の流派として伝わっていたものが本山の流派に統一され、常法談林所の格式が無くなり、また松橋流も断絶をしてしまいました。仏法紹隆寺の血脈図というお寺の法の流れを表したものにも松橋流が途絶えると「付法断絶」と書かれています。

画像3

約100年ぶりに松橋流を復活

現在の住職である第39世の宥全(私)は歴史ある仏法紹隆寺の法流である松橋流を復活させたいと願っていました。法流に明るい恩師に相談をすると、そのうちの一人で私が僧侶になろうと決断をさせてくれた高校時代の恩師、現在の高野山真言宗教学部長の橋本先生が西大寺流という流派と松橋流を持っておられました。ご縁という他ないような出来事でした。今までどこを探しても見つからなかった松橋流の継承者が恩師だったのです。

画像4

令和元年5月26日に第39世住職として仏法紹隆寺の法燈を継承する儀式を行いましたが、それに先立ち橋本先生のお寺に通い、ついに松橋流を伝授していただきました。ここに仏法紹隆寺の法流が約100年ぶりに復活したのです。「伝法灌頂許可密印 松方」というものが松橋流の免許になります。

画像10

お坊さんの学校であった常法談林所、能選談林ではなくなりましたが、仏法紹隆寺にはかつてお坊さんたちが学んだ本が沢山残されています。聖教という本やお経は今、信州大学の渡辺教授により整理が行われ、後世に伝えていくために文化財登録の準備が進められています。それに先立ち古文書類3000点が文化財となりホームページにて公開しています。近々聖教3000点も公開する予定ですので、お楽しみに!

https://buppou-syoryuji.jp/database/komonjo/

次回は諏訪高島藩主の祈願寺 について書いていきます~

仏法紹隆寺 諏訪市四賀4373

拝観時間 9:00~16:00

月曜休館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?