「対義語」再考-義務教育段階に「言語哲学」を取り入れてみる-

 国語科の中でも重要な学習として、漢字の「対義語」の学習があります。大体小学校中学年頃でしょうか。
 ふと思ったのですが、ある程度概念を習得してからでも、「対義語」の二項対立的な構造を俯瞰・熟考し、学習者が自分なりに脱構築する機会を保障することは、有意義なことなのではないでしょうか。


 例えば「幸福」と「不幸」という概念があります。これらは学校知識的な観点から言えば、対立する概念、「対義語」です。ですが、「幸福でもあったが、同時に不幸でもあった」という状況は、私たちの人生の中ではいくらでも想定され得ます。具体的に言えば、「有名大学に合格できたことは、目標を達成できたという点では幸福だったが、入学後の授業が自身の思い描いていたものではなかったという点で不幸だった」、「彼に出逢ったことについて、人を想うことを学べたという点では幸福であったが、同時にその後も長く引き摺ることになり、その点では不幸だと思っている」など、いくらでも挙げられますが、およそこのような場合です。これらは、必ずしも矛盾するものではなく、私たちは上手く「対立概念」と折り合いをつけながら、日々生きています。


 人間は本質的に矛盾する生きものだと、私は昔から考えてきました。その上、一人ひとりの人生は多様性・複雑性に満ちており、多層的に入り組んでいるものです。確かに、相反する概念を理解し、どのような文脈にも転移できるようにしておくことは、論理性を錬磨する上で不可欠です。しかし、一般的には「前提」とされている構造を再解体し、いわば「言葉のグレーゾーン」について知ることは、自己や社会を省察し、他者性について考える上で有効な手段になり得ます。
 小学校が難しければ、中学校の国語科の中の1時間だけでも、「単純/複雑っていう対義語があるけれど、皆のこれまでの人生の中で、『単純でもあり、複雑でもあった』出来事がなかったか、ちょっと考えて話し合ってみよう」という内容の授業があっても良いのではないかと感じます。それによって、自身が普段から用いている言語を見直し、他者とも共有し、次の言葉の探究へと繋げる「主体的・対話的で深い学び」が、多少なりとも醸成されるように思います。本来は大学で学ぶ学問であるところの「言語哲学」とも関わってくるかと思いますが、何も「大学に入ってから…」と規定せずとも、もう少し簡素化して学習者にも直結するような単元構成にすれば、大学での学びを先取りすることにもなり得ます。もちろん、10年前後の人生の中で十分に経験できることと結びつけるなど、工夫は必要になりますが。
 …という、ちょっとした少考と提案でした。

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