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ひきこもりには、ファーストチルドレンとセカンドチルドレンがいる

僕がひきこもりの集まりに行くとある違和感をおぼえる。使う言葉や意識などがちがうからだ。

西鉄バスジャック事件(2000年)と新潟幼女監禁事件(2000年)などをきっけかに一気に「ひきこもり」という言葉が流通した。村上龍や吉本隆明などの文化人や知識人も関心を示した。彼らは興味深い事象と捉え、何かしら可能性を感じたのかもしれない。しかし、結果は無残なものだった。

100万にはいるとされるひきこもりから人々を驚嘆させる才能をもつ芸術家も世の中を変革させる起業家も生まれなかった。ひきこもる人間は元々才能がないのかひきこもると能力が発現されにくいのか。

ひきもっている人にも一人ひとり価値があると道徳の教科書に載っているようなことを聞きたいわけじゃない。圧倒的な存在感をもつ人間がひきこもりの中から一人でも生まれてくれば、人々のマインドは変わる。

現代の労働市場や価値基準において、大多数のひきこもりが凡人以下だとしても世の中の意識を変えさせるような強烈な個をもつひきこもりが一人でも現れたならば、いまの社会では活躍できなかった人々が生きやすい環境が生まれるのではないだろうか。

ファースト世代とセカンド世代

2000年前後にひきこもりという意識を持ち、それに自分が当てはまると思った者を「ファースト世代」あるいは「ファースト・チルドレン」と名付けよう。これは意識の問題であって必ずしも年齢と合致するわけではない。

いま、僕が付き合っているひきこもり経験者や当事者のほとんどが「セカンド世代」あるいは「セカンド・チルドレン」だ。ファースト世代はいるかもしれないが、今のところそれらしい人に会ったことはない。彼らはどこにいったのだろうか。絶滅したのか。

「当事者」と「ひきこもり界隈」という言葉


自分はファースト世代だが、セカンド世代の言葉から耳慣れない言葉がよく聞こえてくる。たとえば、「支援」や「支援者」という言葉がそうだ。これは自分のときはほとんど使わなかったと思うし、意識もなかったような気がする。

「支援」を意識するとしても保健所や行政の一部を示していたと思う。ところが、セカンドのいう「支援」はもっと広義のような気がする。ひきこもり支援のNPO団体や業者が増えているせいかもしれない。

つぎに「当事者」という言葉。これも自分のときは全く出てこなかったと思う。いまは、頻繁にこの言葉を聞く。また、「ひきこもり界隈」という言葉もそうだ。界隈とひきこもりの言葉の持つ意味の相性の悪さを感じたから不思議だった。

ファースト・チルドレンである自分は、ひきこもりの受け皿がなかったので自ら精神医学のほうに歩み寄った。セカンド・チルドレンは自らがその受け皿を作り出そうとしている。

もちろん、既存の福祉制度や施設を併用している人も多いのだが、医療に対してあるていど距離を置いているように思う。そして、セカンド世代のあいだでは発達障害という言葉をよく聞く。

昔、斎藤環医師が海外の学会でひきこもりを取り上げると他国に医師から「それは統合失調症ではないのか?」と言われたそうだが、これはファースト世代の話だ。今はひきこもりから統合失調症を連想する人は少なくなり、発達障害ではないかとさかんに唱える人がふえた。

ひきこもり系とじぶん探し系

斎藤環医師は、若者を分類する上でひきこもり系とじぶん探し系と大きく二種類にわけた。2000年前後の話である。

ひきこもり系は孤独に耐えられるという。だから、カルト宗教にもっとも行きにくい人種というのだ。なぜなら自分自身がセルフカルトだから。自己肯定感はないが強烈な自我をもっている。

一方、じぶん探し系はいつも友人と連絡を取っていないと落ち着かない。そして、カルトに行きやすい。孤独に耐えられず常に何かの承認を受けたがる。

斎藤環は、有名人では宇多田ヒカルをひきこもり系とし、浜崎あゆみをじぶん探し系と分類した。ちなみに宇多田ヒカルがデビューしたのも2000年前後であり、彼女の愛称がヒッキーなのは偶然ではない。現代にユングが生きていたのならシンクロニシティと語っただろう。

社会がダメになると人が輝くと小室直樹は弟子の宮台真司に言ったそうである。混乱期こそ多くの魅力的な人物が出てくるという。それに倣うならば、セカンド・チルドレンであるひきこもりから乱世の奸雄が出てきてもおかしくはない。

記事の内容がよかったぜという方だけでなく、喜捨して徳を積みたいという方にも喜んでいただけるシステムになっております。この機会にぜひ(^_^)v