見出し画像

ひきこもりという名称を変えるべきか否か~言葉が持つ呪い~

ひきこもりという言葉が厄介だ。ひきこもりという言葉からほとんどの人が物理的に家から出ないことを連想してしまう。

その上、多くのメディアによってひきこもりは家から一歩も出ず、自室で体育座りをしているイメージが流布された。このイメージを払拭しようと努力しても「ひきこもる」という動詞からやはり家の中にいるというイメージに再帰してしまう。

外に出たらひきこもりじゃないという人が多いために理解が深まらない。実際、外出するひきこもりはけっこういる。問題なのは、家族以外との人間関係がほとんどないこと。しかし、その事実をひきこもりという言葉が邪魔している。

海外の人と話すと、HIKIKOMORIという言葉が出てくる。もしかしたら、彼らも日本のメディアが流布したイメージを持っているかもしれない。ただ、「ひきこもる」という日本語に縛られない。だから、一度イメージを修正すれば理解は深まると思う。

一方、日本人は、母国語である「ひきこもる」に縛られたままだ。名は人や物を縛る。夢枕獏の小説「陰陽師」の安倍晴明が言うように、名前とは呪(しゅ)なのだ。それならば、ひきこもりを他の言葉に変えたほうがいいかもしれない。精神分裂病を統合失調症と変えたように。

しかし、HIKIKOMORIという言葉が世界に広まってしまったため、今度は海外で混乱を起こしかねない。ようやく、HIKIKOMORI問題が顕在化しつつ国もあるのにその調査や研究を阻んでしまうかもしれない。

ひきこもりという言葉には功罪がある。精神科にかかっていない人を支援しやすい言葉だが、大きなカテゴライズだから誤解を生みやすい。では、細分化したほうがいいのか。鬱病、発達障害、不安障害というように。これだと精神科にたどり着けない人、あるいは精神科までいく必要のない人はこぼれ落ちるだろう。

ひきこもりは大きなカテゴライズだからこそ大きな力を生む。たとえば、LGBTはそれぞれ違うわけだが、個々に動いていたら大きなムーブメントを起こせなかっただろう。ひきこもりにも似たものを感じるけれど、いかんせんひきこもりの性質上なのか、社会にコミットする人間が少ない。

そして、ひきこもりという言葉の呪いに縛られたひきこもり当事者が、社会にコミットするひきこもり当事者をフェイクだと罵る場面が出てくる。足の引っ張り合いで自らの首を絞める。前門の虎(世間)と後門の狼(同じひきこもり当事者)に苦しめられる。その間隙をぬうように雨後のたけのこのように魑魅魍魎の輩も出てきた。もはや乱世だ。

記事の内容がよかったぜという方だけでなく、喜捨して徳を積みたいという方にも喜んでいただけるシステムになっております。この機会にぜひ(^_^)v