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【風、雲の合間に】

 男はスツールに浅く尻を引っ掛けるように、それでいてカウンターの滑らかな石の磨かれた模様をいくらも邪魔する気がないと言わんがばかりに肘も手もつかず己の芯のバランスだけで見事にその場所でギムレットを飲んでいた。照明が薄いライムグリーンの色を透けながら重ねて落ちるそのゆらりとした様に長くバーテンダーとして働いてきた杉沢もふとうっとりとしてしまいそうなほどである。
 男が店を訪れたのは一刻ほど前だっただろうか。杉沢が店を早仕舞いしようとするやいなやの時間のことであった、車の音も人の声もしなくなった街の群青の風が音もなく店に一筋流れたことを感じ扉の方を見やるとこの大柄なコロリとした男が立っていたのだ。
 杉沢が自身に気づいたことを確認すると、いささか季節外れの感のあるキューバ帽を軽く上げ会釈をし、杉沢の立つカウンターの席へと。所作の美しい男だ、それが杉沢の抱いた第一印象であった。動きに無駄を見せない関節の滑らかさ、体に染みついているであろう足音の響かぬ配慮、オーセンティックなバーを営むものとして惚れ惚れするような紳士。ふと嬉しさが込み上げたがそれを抑えて酒の瓶の並ぶ棚を隠さぬ位置に身を置いた。表情を掴みづらいがその男はその品揃えを見て少し砕けた笑顔を浮かべた気がした。
「ギムレットを頂けますか」
穏やかな言葉が耳にやさしく届く。ジュネヴァ。信頼しているボルスのボトルを手に取る。男の鼻から呼吸音が聞こえる。この外に降りしきる雪の静けさ。太陽を受けたライムの皮を削り液体に香りを移してから濾し、搾りたての果汁を滴らせる。
「美しい音がします」
男はグラスを眺めながらそういうとギムレットを一口飲み、音にならぬ歓喜を体から発したように見えた。

 どこかで会ったことがある。そんなことを思い始めた。おそらく遠く昔のことだ。故に記憶を辿るきっかけを探すことは困難を極めた。円錐状の影が単色になりカウンターを小さく彩る。
「スパイシーなクラフト・ラムがあるんです。お試しになりますか」
そんな言葉がふと出てきた。
「素晴らしい。体が温まりそうです。頂けますか」
モルトグラスに少量を注ぐ。男はそれに熱を伝えるように丁寧に触れて甘く強い香りを楽しんだ。
「これは想像していた以上に香り高い。このラムをベースに次のカクテルを作っていただけますか」

 目の前にいくつかのビジョンが見えた。断片と断片、曖昧な記憶、まだこの場所が新しかった頃の、自分が今よりずっと若かった頃の。杉沢は霞む目を振り戻し手元に集中する。先ほどのラムに数粒のレーズンを落とし甘味と果実味を移していく。しっかりと陽で干したレーズンからノスタルジーがもやのように液体に揺れる。その後にパイナップルを漬け込んだラムを数滴、仕上げにココナッツミルク。
「これは、ピナ・コラーダ」
カジュアルで陽気なピナ・コラーダを夜にバーでゆっくり楽しめるようにアレンジしたこのカクテルを男はたいそう気に入ってくれたようだった。そして束の間の沈黙。杉沢は思わず口にした「失礼ですが、以前どこかで」

「ええ、覚えていてくださいましたか」
男は嬉しそうに声をあげた。
「正確には思い出せないのですが、そんな気がしていまして。どこでしょう、どこで会いましたか、それが思い出せずにいます。どうもこの場所であるようなのですが」
男の丸くコロッとした手がピナ・コラーダの入ったグラスを持ち上げる。
「マスタードです」
「マスタード?」
「はい、マスタードです。ピクルスと夏野菜のテリーヌの盛られた皿にあったマスタード、あの夜です」

 杉沢は数秒立ち眩みのような感覚に包まれた。それは忘れもしない日、独立しこのバーを立ち上げて迎えた最初の八月のこと。今よりもカジュアルで店の雰囲気も明るく世の中はずっと陽気であった頃。色とりどりの夏のカクテルを楽しんだ客の中にトロピカル・カクテルを何杯か飲み一人酔いの回った男性がいた。これ以上酒を提供することはできない旨を告げ退店を促したのだが最後に一杯だけと懇願するのでアルコールをだいぶ控えたピナ・コラーダを供した。ただ何か文句を最後に言いたかったのだと思う。男はアルコールを控えめにしつつも丁寧に作られたピナ・コラーダの中に他の客の皿から指で掬い上げた粒マスタードを投入し「こんな甘ったるいもの飲めるか!」そう言って去っていったのだ。

「ずいぶんと前の話です。お恥ずかしい。あの時ここにいらっしゃったのですね」
杉沢はそう言い少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「なぜあの時何も言い返さなかったのですか?あの日のピナ・コラーダは素晴らしいものだったはずです。オーソドックスでありながら使用しているラムはアレンジの効いた個性的でここでしか飲めないものでした。実際に沢山の人がおかわりをしていた。あの男も最初に一杯おいしそうに飲んでいた。なのになぜ何も言い返さなかったのですか」
「いやあ、もちろん何か言いたい気持ちはありました。でも思いました。どんな状況であれ満足してもらえる位のカクテルを毎回作ろうって。そういった問題のおこらないような良い雰囲気の場所を作ろうって。不思議なものです。そう考えた瞬間に何か言いたい気持ちが軽くなったんです」
「今日のピナ・コラーダも美しいカクテルです。ここでしか味わえない特別なカクテルです。本当に素晴らしい。申し遅れました。私は苦虫です、ほら」
男は立ち上がりキューバ帽を取り右手に抱えた。
「私はあの日あなたが噛み潰さなかった苦虫ですよ」
杉沢は立ち尽くしていた。目の前には大きくなり貫禄の溢れた苦虫がうっすらと涙を浮かべている。
「あの日あなたがどれだけ悔しくても理不尽なものを乗り越えて前へ進んでくれたから助かった命です、私は。今日はどうしてもその感謝を伝えたくてここへ参りました」

 苦虫はその後に杉沢の得意とするムルドワインを飲み、甲虫特有のお酒の強さを感じさせた。静かに立ち上がりお会計を済ませた後、苦虫が杉沢の両手を両手で強く握り「本当にありがとうございました」そう目を見つめながら言う。扉が開いた、雪の降り止んだ街、澱みの全てが大地に溶けていく夜。遠くに消える大きな背中を見ながら何度も「ありがとう」と声に出す。

 翌朝はよく晴れた。雪が水になりマンホールや排水溝へ流れていく。目を細めて太陽を眺めた。それは雪の降る前より強く杉沢の額から鼻に当たる。長い混沌が薄らいで揮発していくのを感じる。続いていく雲を黄色く染めながら大きな季節が巡るそのほんの隙間の大きな太陽に。








【おしまい】




本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。