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【師走】 

 年の終わりに近づく頃、おまえはひとつの企画を目にした。「辰年」の絵を描くのだ。簡単なようで難しいのではないか。絵を描くことはあってもそれはテーマを与えられて描くものではない。おまえはいつも自分で描きたい絵を描きたいように描いてきただけだった。
 
 走る。忙しいという言葉を嫌うおまえは、年の暮れゆく様よりも早く仕事を終えようとする。必然的に「note」からは遠のき、朝早くから働くはじめ、年末から年始にかけて長く休暇をとるために走った。
 街に出れば、そこにはクリスマスへ向けて胸を躍らせ、小走りに行き交う人々の姿が日毎に増えいった。孤独ではない。ただ右腕に宿った黒龍が何か言いたそうにおまえを見つめた。その度に邪眼が疼いた。黒龍はそうした後に時々問う。「おまえはそれでいいんか?」と。
 「別に」おまえはそうそっけなく答える。「アホや。時間を急ぐやつはアホや」黒龍が言う。
 
 「辰年」の絵を描く。一枚の紙があって、手に取った筆の先に水性の絵の具をつける。絵の具が紙に垂れぬよう、ゆっくりと最短の距離で筆を動かす。幼少期に遊んだことのあるクレーンのゲームのようだ。そう思ったおまえは昔住んでいた町を、その匂いの記憶の中にいた。 
 何もかもが変わってしまった。街も、匂いも、おまえ自身も。
 この建物だってそうだ。おまえがずっと小さかった頃にはなかった。それがいつのまにか記憶の中にある建物になった。それがいつだったかなんて誰も覚えていない。景色とはそんなものだ。
 紙の上に色が乗ると、それはゆっくりと滲むように輪郭を不明瞭にしながら広がった。
 思いつく色を塗っていく。そのどの色もが滲んでは広がっていった。ある色は他の色とその一部を混ぜ合うようにして、最終的に止まる場所を決めた。ある色は紙の端で思い立ったようにその広がりを止めた。

 強く生きようと、そうなるように生きるのだと、クリオネは生きた。私はそれを見てきた。この先の人生で誰がどんなことを言おうと私はおまえのことを誇りに思うだろう。

 暗くなった道を行き交う人々のスマホが照らす。ゆらゆらと漂う光が凛とした空気に溶けていく。まるで絵の具のようだ。でもその光は広がることなく一定の範囲で所有者の顔を浮かび上がらせていた。
 笑った顔のものもいる。どこかうかない顔をしたものもいる。でもおまえは自分の顔を気にすることもなく走った。酸素を二度吐き、酸素を二度吸う。その吐く息の色が何色かはわからない。しかし酸素を吸う時に湿気を感じると体の中の色が変わっていく気がした。もうすぐ雨が降るのだ。おまえはペースを上げ、光の滲む場所を目掛けて疾走した。

 クレヨンを買った。水性の絵の具ではいつか自分が不明瞭になっていくような不安があったからだ。
 真っ白な紙の上に黄色のクレヨンを塗る。紙に乗った黄色を指でさするように広げていく。クレヨンは魔法のようだった。おまえはその脆い指で必要な分だけ世界を明るくすることができた。

 明くる日もおまえはクレヨンを買ってきた。何箱も明るい色を集めて、紙だけにとどまらず、部屋の壁にもその指で色を広げていった。もう邪眼は開かなかった。
 黒龍がいう。「お前は変わったな。アホや。おまえはここで降りろ」と。それ以降右腕が疼くこともなくなった。強くなろうと生きてきた、おまえはその手から、かつて自ら手にしたはずの力を手放した。

 走る。おまえの手は今までよりも多くの空気を掴みながら走る。腕を大きく振る。おまえの腕はクレヨンのように街を黄色く染めた。クリオネ。私はその姿をよく覚えているよ。

 一年の仕事を終え、一年の初めのいつもより長い休暇を終えた。おまえは焦っていた。「辰年」の絵が浮かんでこなかったからだ。
 考えれば考えるほどその頭は混乱した。黒龍の声がどこかから聞こえた。
「アホや」
 ランニングシューズの紐を固めて、外へ飛び出した。走っていたかった。

 視界が狭くなる。速く走ろうとすればするほど、見えていたはずの世界が小さくなる。それでも走る。その狭まった景色の向こうに黒いジャージ姿が見えた。その男は時々立ち止まり、ボクシングのような動きを見せた。
 追い抜きたい、そう思った。さらにペースを上げた。二度吐いて、二度吸っていた酸素が短く途切れた。もう何も見えない、そう感じて膝から地面に崩れ落ちた時に、おまえはそのジャージ姿の男を見た。

 クリオネ。おまえは精一杯走った。そして精一杯描いた。けれどその絵は「辰年」ではなかった。それでも私は、誰がなんと言おうとおまえを誇りに思うよ。




 それは「辰吉」だよ。









 遅れました!こちらの企画に参加しています!うるらさんもあっぷちゃんもありがとう!





【おしまい】





本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。