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東日本大震災とオリンピックと陸前高田市と

今年で震災から9年。
復興をうたった東京五輪も目前となった。

被災地では家を確保できたことに安堵しながらも、次は「子どもの将来」や「自分の仕事」と、課題が山積みで、五輪は二の次という感じ。
嬉しいけど、まだやることあるでしょ的な。


東京五輪開催が決まったのは、2013年。
福島は余震もしょっちゅうで、第一原発の危機的状況も続いていた。

みんな先が見えないまま必死だった。

決して望んだわけではないのに、移り住んだ災害公営住宅で1人暮らすお年寄りや、避難したまま戻れない人々。原発で働く人たち。
そういう人たちを救いきれないまま、2020年を迎えた。


何年経っても戦っている。震災はまだ終わらない

2020年にはもうほとんど見なくなった仮設住宅は、2013年にまだ多く残っていた。

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2013年には初めて岩手県の陸前高田市でボランティアをした。
仮設住宅にある集会所に行ってイベントをしたり、遊び場をなくした子供たちと遊んだりと、被災地に住む人々の「生きがい」を作ろうと必死にやった。
大切な人を亡くして引きこもりになった人、津波の記憶を消したくてアル中になった人、心に深い傷をおった子など、自分の手では救いきれない人も沢山いた。

街はきれいになったけれど、人の心はなかなか元どおりとはいかなかった。


向き合いたくない現実も嬉しいことも、全て消化するには9年はあまりに短い

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陸前高田には毎年通っていた。
約1年ぶりに陸前高田に訪れたある日、毎回遊びに行ってた仮設住宅に住む小学生の家が空き家になっていた。
どこに行ったかは分からない。新しい家に引っ越したんだろうな。どこかでまた会えればいいな。そんな急な変化は、陸前高田に来てからは頻繁にあった。

震災から9年。
街も人も変わり続けている。向き合いたくない現実も、嬉しいことも全て消化していくにはあまりにも短い。
3月が来るたびに、2011年から何年が経ったというのが重くのしかかってくる。


「震災があってよかったこともある」という人がいた。震災の意味はなんだったんだろう

ある夜、陸前高田に住む知り合いと震災について話したことがある。

彼女は僕に、こんなことを言った。
「震災があって、よかった面もある。たくさんのボランティアが来て、七夕まつりが盛り上がった。震災がなかったら、地元民だけでは続けられてなかったかもしれない。」

震災のおかげでいい面もあったというのは、多くの人が言う。そう言って、過去を肯定することは生きるために必要だ。
けれども震災によって大切な人やモノをなくした人がいることを考えると、「震災ありがとう」や「震災のおかげ」と思うことは難しい。だから震災があってよかったということは、肯定はできない。
ただ、震災があった意味を、いい面と悪い面の同時に見て行くのは必要なことだと思う。

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震災は陸前高田に多くの人を集めた。
たくさんの人が集まって、たくさんの幸せも生まれた。
震災当時小学生だった子が高校生になった。
ボランティアの人と陸前高田の人が結婚したりもした。

震災から9年。

あの震災の意味はなんだったんだろう。とよく考えさせられる。


10年目の東北には、また新たな課題がのしかかってくる

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復興が進むにつれて、仮設住宅はなくなっていく。
それに伴って、出来たコミュニティは解散を強いられる。

仮設住宅は長屋が多くすぐ近くに人が住んでいるので、一人で住んでる感はあまりない。狭い部屋ながらも友だちに囲まれて、楽しそうに生活している人が多かった。

仮設住宅からの引っ越しは、復興が進んで自分の生活を取り戻したと言える。
けれど、別の側面から見ると心地いい場所からの別れとも言える。
「みんなで力を合わせて行こう」と集まった集団がバラバラになり、「1人で生きていこう」となった時、一体どれだけの人が実行できるのだろうか。


大きな変化が続く東北は、他の地域での地震や豪雨災害の影響もあって急速に風化が進んでいる。

震災復興に関わっていたボランティアが他の被災地に行ったり、大学生ボランティアが社会人になって東北に来れなくなったりする。
陸前高田に住む子どもは都会志向が強く、大人になったら出ていく子も多い。

これからがまた、踏ん張りどころだと思う。
東北のこれからは、これからにもかかっている。


9年間でベルトコンベアが建って、役目を終えて解体までされた

2013年から陸前高田に通い続け、変わりゆく街並みや友だちの変化を見るのは、大きな楽しみの1つだった。変わってしまったことに哀しさを感じることもあるけれど、そう言うのも含めて今は変わり続ける陸前高田であって欲しいなと思う。

下の写真は、定点で撮った陸前高田の様子。

2014年3月陸前高田
高台移転のための盛り土を運ぶ「ベルトコンベア」や「復興住宅」が建設され始めた。自殺者が増えると言われている3年目の年でもあった。画像4


2015年3月 陸前高田
完成したベルトコンベアからどんどん土が運ばれてる。この1年の変化スピードは異常なほど早かった。沿岸部では防潮堤の建設が進んでいる。
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2017年 9月 陸前高田
ベルトコンベアがなくなり、防潮堤が完成し、盛り土したところにはショッピングモールなどが建ち始めた。仮設住宅も空き家が目立ち始めた、大きく陸前高田が動いている。
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この写真以降、この撮影現場でも工事が始まって撮影できなくなった。
今でも工事が各地でなされ、日々変化し続けている。


街と人と人生と

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東日本大震災で被災していない僕は、被災者と完全に同じ気持ちにはなれない。
被災した人と被災していない人とでは、捉え方の主観性も抱く気持ちも根本から違う。

被災していない人にとって3.11は、震災がおきて東北に大きな被害があった日。多く命が奪われた日。被災した人にとってその日は、大事な人の命日であったり、宝物をなくした日であり、運命が変わった日でもある。

「被災直後の東北では食べ物、服、住むところがあっても人がいないと生きていけない 。」とある人から聞いた。
2011.3.11。神戸にいた僕に、当時の東北の様子を知る術はない。本当にたくさんの人に聞きまくって、テレビやyoutubeで映像を何回見ても実体験には勝てない。僕が知っている東北と3.11の実際の東北には乖離がある。


これからの僕たちがするべきこと

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陸前高田では、みんながいかに自分や家族の幸せを願っているかを感じる。
「震災前は楽しかったなあ。」と思うのは仕方のないことかもしれない。

そういう現実を見ていると、僕らはもっと「今この瞬間」と「大事な人」を大切にして生きなければならないと思うようになった。

防災グッズを買うよりも、そのお金で誰かにプレゼントを買う方が良い。 後悔するのはきっと水を買わなかったことじゃなくて、大事な人を大事にしなかったことだから。 今この瞬間と目の前の人を大切にすることが、災害に対する1番の備えになる。いくら防災グッズを買っても、発災時に手元にあるとは限らない。使えるかどうかも分からない。実際、防災グッズを準備してなかったことに対する後悔の声は、陸前高田で一度も聞いたことがなかった。

そんな未来のことは分からないから、せめて自由に生きれる今を大事にした方がいい。

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