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東日本大震災後、陸前高田市に神戸から6年間通い続けて感じたこと②

ボランティアは自己満足なのか

陸前高田のために、現地の人のことを考えて120%の力を注いで活動しても、結局自己満足に過ぎないというのが僕の結論です。というより、相手のためになってるかの議論は必要ないと思います。ボランティアする側ができるのは、相手のことを想って全力を尽くすことだけ。

その人の手を握った僕のこの手が、1人の命を救うかもしれないと信じて、活動するしかないと思っています。相手が本当に喜んでくれてるかなんて分かりません。ボランティアする側が気付いていないところで、とても喜んでくれる人がいたかもしれません。

ある仮設の集会所に半年ぶりに行った時、1人のおばあちゃんが集会所に来るなり「○○君はいるかい?」と言ってきてくれました。右の手のひらにはボールペンで名前をメモしていました。半年前にあった時、僕はそのおばあちゃんと30分ほど立ち話をしただけでした。その時間がすごく楽しくて、神戸大学が来るということを聞いてわざわざ集会所まで来てくれたのです。

「自分がどれほどのことを出来たか」という自己評価と、「相手がどう思ったか」という受け取り手の認識にはずれがあると、その時に気づくことができました。

ボランティアの活動の意味や意義、目的は人によって考え方は違います。というより、言語化がとても難しいです。僕自身も多くの人の前でやってきた活動やボランティアについて話してきましたが、話しながら「なんだか伝えたいことと違うなあ」と思うこともあります。笑

 1ついえることは、僕にとって陸前高田の人たちは「被援助者ではなく、お隣さんとか友達」という認識です。それは仮に陸前高田が完全に復興しても続く関係で、もしかすると結婚式に呼んだりもするかもしれません。笑

 

震災は陸前高田をどう変えたか

東日本大震災と津波によって陸前高田が壊滅的な被害を受けたのは、よくテレビで放送され知ってると思います。

僕が初めて陸前高田に行った2013年5月は、街全体に空き地が広がっている感じで、本当に何もない状態でした。かつて建物がたくさん建っていたという事実を信じることは出来ませんでした。まさに何もない街に変わってしまっていました。

街全体の視点から、もう少し視点を狭めて話します。

陸前高田で生まれ育った50歳のTさんは食べることが好きで、「みつわ飯店」のカツ丼がお気に入りでした。(あえて店の名前を書いています)
震災後、一度は閉まった「みつわ飯店」が再開しカツ丼を食べれた時、涙が出たそうです。


同じくTさんから聞いた話です。
Tさんが勤務する会社の社長さんは、「やぶや」の蕎麦が大好きでいつも出前を頼んでいました。社長はいつも「天ぷらそば」を頼んでいたそうです。その社長さんが震災で亡くなりました。Tさんが「やぶや」に行った時、「天ぷらそばの社長、亡くなったのね。。」と店員さんに言われ、なんとも言えない気持ちになったそうです。「やぶや」の出前サービスも震災後にしなくなりました。なんというか、虚しいですね。

 

変わりゆく陸前高田

何年も陸前高田に通い続け、変わり続ける街並みや友だちの変化を見るのは、大きな楽しみの1つでした。

変わってしまって哀しくなることもあるけれど、それも含めて「変わり続ける陸前高田」という変わらない街でいて欲しいなと思っています。それにしても、あまりにも急速に変化を遂げる姿は目を見張るものがあります。この変化に戸惑いを感じる人もたくさんいるのも事実です。知り合いのKさんは、津波で家が流されて仮設住宅に住んでいました。元々家のあったところには堤防が建てられ、それがとても悲しくてその堤防には近づかないようにしてると言っていました。

2014年3月陸前高田
高台移転のための盛り土を運ぶ「ベルトコンベア」や「復興住宅」が建設され始めた。自殺者が増えると言われている3年目の年でもあった。

2015年3月 陸前高田
完成したベルトコンベアからどんどん土が運ばれてる。この1年の変化スピードは異常。沿岸部では防潮堤の建設が進んでいる。

2017年 9月 陸前高田
ベルトコンベアがなくなって、防潮堤が完成して、盛り土したところにはショッピングモールなどが建ち始めた。仮設住宅も空き家が目立ち始めた、大きく陸前高田が動いている。

 

七夕祭への熱い想い

陸前高田では、8月に七夕まつりという大きな行事があります。それを2011年に開催するかどうかで、多数決を取りました。結果は反対14票、賛成4票。

実行委員のTさんは諦めきれず、他の地区と合同で開催しました。子ども達の2011年の思い出が、「震災もあったけど七夕もやった。楽しかった。」というものにしてあげたかったと言っていました。 

友だちが引越しした

陸前高田市の竹駒町にある仮設住宅に、仲の良い小学生の友だちがいました。その仮設に2年ぶりに行ったら、空き家になってました。新しい家に引っ越して、新しい生活を始めたのでしょう。おめでとう!

どこに行ったかは分からない。でもまたいつかどこかで会えればいいな。

陸前高田に関わってきた6年という歳月は短くて、でもやはり長い時でした。街も人も変わり続けています。向き合いたくない現実も、喜ばしいことも全て受け止めていかないといけません。本当に、長い時間を陸前高田で過ごして来たと実感しています。

 

友だちのお母さんとの話

陸前高田で一番仲の良い高校生の女の子がいます(初めて出会った時は、小学生でした!)。彼女のお母さんと震災について話したことを書いていきます。

お母さんは僕に、こう言いました。
「震災があって、よかった面もある。たくさんのボランティアが来て、七夕まつりが盛り上がった。震災がなかったら、地元民だけでやれたのか怪しかった。」

震災のおかげでいい面もあったというのは、多くの人から聞きます。これはボランティアする側も考えさせられる言葉です。ただ、この言葉に甘んじてはいけないと思います。震災があってよかったということは、100%肯定できることではありません。
震災で大事な人やモノをなくした人からすると、「震災ありがとう」や「震災のおかげ」と思えることはなかなかないでしょう。震災があった意味というものを、いい面と悪い面の同時に見て行くのが大事だと思います。

 

確かに震災は陸前高田に多くの人を集めました。

たくさんの人が集まって、たくさんの幸せも生まれました。

震災当時小学生だった子が高校生になりました。

ボランティアの人と陸前高田の人が結婚したりもしました。

 

震災から8年。

あの震災の意味はなんだったんだろう。とよく考えさせられます。

 

朝カフェと高田高校仮設の終わり

高田高校のグラウンドにある仮設が2018年の夏に取り壊されました。ボラバスと高田高校仮設の住民との繋がりはとても深く、たくさんの貴重な時間を過ごした場所でもありました。それがなくなったことは、大きな衝撃でした。思い出の地がなくなったという思いです。
高田高校仮設のいつメンが復興住宅や新居に移ったことで、高田高校で新たにできたコミュニティは無くなりました。5年間、毎朝有志が集まって集会所でコーヒーを提供していた、通称「朝カフェ」も終わりました。

この変化は、復興が進んでみんなが自分の力で立ち上がり、独立したという見方もできます。しかし、僕はどうしてもそう思えなくて、「みんなで力を合わせて行こう」と集まった集合体がバラバラになってしまったと少し残念に思ってしまいます。

「自分だけの力で生きていこう」となった時、それを実行できる人は少ないです。陸前高田に住む人々が、精神的にきつい時期が再び訪れるのではと懸念しています。

仮設住宅は長屋が多く、すぐ顔合わせられる距離感に人が住んでいて、一人で住んでる感はありませんでした。1人で仮設住宅に住んでいたYさんも、仮設住宅に住んでいる時は狭い部屋ながらも友だちに囲まれて生き生きとした生活を送っていました。しかし、彼女が移った復興住宅はマンション型で、隣の人と顔をあわせるのも難しくなりました。部屋も少し大きくなって、僕の目に彼女は寂しそうに映りました。


大きな変化の時期を迎える陸前高田ですが、他の地震や豪雨災害の影響もあり、急速に風化が進んでいます。震災復興に関わってたボランティアが他の場所へ流れていったり、ボランティア活動をしていた大学生が社会人になってボランティアに来れなくなったりします。陸前高田に住む子どもは故郷に残ろうという気持ちは強くなく、都会に働きに出て行く人が多いです。

これからがまた、踏ん張りどころな気がします。

 


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