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「近鉄バファローズ」永遠に…。その②

前回では球団最終年(2004年)の前年オフ(2003)に、球団消滅への「前兆」と言える動きがあったのをご紹介しました。今回はいよいよ球団最終年(2004)の激動の一年の内、「命名権売却」から「オリックスとの球団合併発表」までの動きをご紹介します。

「命名権売却問題」が全ての序章

3年連続Aクラスで終えた昨年オフに主力選手を大量放出し、翌2004年の春季キャンプを明日に控えた1月31日。突然近鉄球団本社から衝撃の発表がある。球団名の中から「近鉄」を外してそこにスポンサーを募集して名義料を得るいわゆる「命名権売却(ネーミングライツ)」をするという。突然の近鉄球団の発表にファンだけではなく、他11球団からも困惑と共に猛烈な反発を受けた。結局一週間後にはその構想を急遽取り下げたために何事もなかったかのような動きになりシーズンを迎える事になった。

ちなみに、この問題が浮上してから近鉄本社はキャンプ地の宮崎にすぐに出向し、現場である球団の首脳陣や選手らに事情や経緯を説明している。当時選手会長だった礒部は「最初はピンと来なかったが、会社の事情もあるし、球団が大きく変わる訳でないから仕方ない。」と全てが終わった後のインタビューで語っていたが、私も同感だった。球団経営状態が芳しくないのは、学生時分の私でもある程度理解できていた。「近鉄」と言う名前が仮に無くなるとしても、球団そのものが無くなるわけではないのであれば構わないと心底思っていた。なぜなら「近鉄」も好きだが、「バファローズ」が大好きだから…。

「球界再編」に向けた全ての始まり

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2004年6月13日。全てはこの日から始まった。この日の出来事は今後生涯忘れる事はない。この日日本経済新聞朝刊の一面に「近鉄 オリックスに譲渡交渉」との記事が出た。私は当日その記事を見ていないが、昼間のTVニュースを見てその事実を知った。私はそのニュースを見た瞬間は何を言ってるのか理解不能だった。というよりも頭の中に一切入っておらず、ひたすら放心状態だった覚えがある。

当日近鉄はデーゲームで日本ハム戦を大阪ドームで行ない、日本ハムにサヨナラ勝ちを収めた。その日夜近鉄の親会社・近畿日本鉄道が緊急で記者会見を開いた。その会見で慢性的な赤字解消の為に球団の売却よりも同じパ・リーグ所属のオリックスとの「球団合併」に向けた交渉を今季終了後を目処に行なっていると、新聞報道での事実を認めた。私はその瞬間に事の重大さに初めて気づいた。「近鉄がオリックスと合併❓じゃあ球団はどうなる❓パリーグの球団数はどうなる❓嘘であってほしい」などいろんな思いが頭を駆け巡った。

これが後の「プロ野球再編問題」の全ての始まりである。その後、事態が進むにつれて近鉄・オリックスの球団合併は「1リーグ制移行」への布石である事が明らかになり、あまりの事の唐突さにプロ野球選手会をはじめファンからも猛烈な反発を受けた。しかも経営者側の一方的なやり方に対してプロ野球選手会は事態や経緯の話し合いの場を求めたが、当初はそれすら応じようとせず一方的に拒絶したため、事態はさらに泥沼化していく。

その後は経営者側と選手会の協議会が何度も行われた結果、近鉄・オリックスの球団合併撤回は不可能となったが、「2リーグ12球団制維持」を求めてプロ野球選手会が最終的にプロ野球界初のストライキを決行する事態にまでなった。これが「2リーグ12球団制維持」が決まった後に50年ぶりの新規参入球団として「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生するきっかけとなった。

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