寄り添うということ
大切な人に、わたしは何ができるのだろう。
これは、わたしの中で長年悩み続けている問題のひとつです。
長年悩み続けているので、大問題と表した方が最適かもしれません。
今もまだ、はっきりとした答えは出ていません。
むしろ、
自分に何ができるかを考えること=生きること
なんじゃないか、、と開き直って、胡散臭い哲学者のような持論を持ち始めてしまいました。
何ができるのかというのは、非常に存在意義に近いものを感じます。
かの有名な哲学者 カントは
人間は自分の存在意義を知ることはできない
と答えを出しています。
※カントは胡散臭い哲学者ではありません。
この答えの出しづらい悩みを持ち続けているのは、わたしの性格のせいでもあります。
良くも悪くも、考えすぎてしまう性格。
「これを言ったら相手を傷つけてしまうかもしれない」
「あの言葉選びは適切だっただろうか」
「わたしは相手のために何ができているだろうか、そもそもわたしという存在は必要なのだろうか」
「この間のことを、今日は謝ろう。そして今日はこんな話をしよう」
書いたらキリがないくらいのことを、毎日のように考える。
毎日のようにその日の出来事について、1人反省会をする。
そんなことを友達に話すと、「過去のことを反省したって意味ない、時間の無駄!」
とド正論をかまされました。
類は友を呼ぶはずですが、、とっても良い関係です。
今年、4年間勤めていた仕事を辞め、わたしの特技“考える”という行為に、より拍車がかかりました。
アクセル踏踏最高速度越えです。
最高速度を越えて考えることで、苦しいこともありました。でも意外にも良い方向に進み、うっすらと希望の光が灯し始めました。
時間があることで、大切な人や自分と改めて向き合う時間が増えたからです。
大切な人に、わたしは何ができるのだろう。
という冒頭の答えはまだ見つかりそうにありませんが、大切な人にとって、わたしは“こうありたい”と思えるようになったのです。
時間をかけて考えている中で、わがままで泣き虫で弱い自分がやっと顔を出してくれました。大切な人を引っ張るのではなくて、後ろから支えたい。応援したい。そばにいたい。と思えるようになりました。
うっすらと灯した希望の光、わがまま泣き虫なわたしでもできるかもしれないこと。
それが寄り添うということでした。
隣に並んで肩が当たるくらいそばにいて、あたため合う。
そこには言葉があるかもしれないし、時には言葉なくても、そばで寄り添っているだけでも良いかもしれない。
もし大切な人が、夢のために遠くへ行くとなった時、遠くからでも心の底から応援すること、大切な人の幸せを願うこと、これもまた寄り添うということなのかもしれない。
大切な人と同じ考えを持って、同じ方向を見ていたら、自分が空気になって、寄り添えば良い。
もし違う考えを持って、違う方向を見ていても、無理やり同じ方向を向くわけでも、向かせるわけでもなくて、自分が太陽になって寄り添えば良い。
寄り添うことで、当たり前に存在する空気になれたり、相手を照らす太陽にもなれるのではないか。
泣き虫なわたしなら、時に潤いを与える雨にもなれるかもしれない。
物理的にそばにいなくても、常に同じ方向を見ていなくても、寄り添うことはできるんだと思えました。
今思うと、わたしの大切な人がわたしにそうしてくれていました。もちろん今も。
泣いている時に、そばにいてくれたり、わたしが話せるようになるまで、辛抱強く寄り添ってくれたり。
当たり前にできることではないし、当たり前だと思って受け取ってはいけない。
考える中でやっと気がついた寄り添うということ。
わたし自身が1番寄り添いをもらっていたのかもしれません。
良い風に綺麗事を並べて、考えすぎてしまう自分にどうにか言い聞かせてるだけだと、勿論自覚しています。
小説家、遠藤周作さんは
と著書の中で表現されていたので、わたしも自分の甘やかしのために一生懸命になって書いています。
どうぞお許しください。
寄り添うということ。
これはまだまだ答えではなくて、これから生きていくうちに、寄り添っていくうちに、新しい考えが生まれてくる通過点なのかもしれません。
ここでアクセルを踏む強さをいったん緩めて、平常運転で行こうと思います。
ぐだぐだと、わたしの胡散臭い哲学にお付き合いいただき、ありがとうございます。さいごに。
いつも寄り添ってくれてありがとう、寄り添わせてくれてありがとう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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