「チェンソーマン」はポリコレ的にそんなにダメなのか。

 なにやらどこか一部では、デンジくんの「胸をもみたい」発言が炎上しているようで。「『チェンソーマン』はいい作品だと思うが、こういった性欲ベースの姿を描かなくても面白くできたのでは」などもありましたね。
 オタクでありながら、ジェンダーとかミソジニーとかのセンサーもそこそこ発達している身で思うことのまとめです。

 まず私のスタンスは「『チェンソーマン』は、集英社やジャンプ漫画の中でもかなり女性蔑視が少ない気がする」という点です。「気がする」レベルなのは、すみませんアニメ化に伴って初回無料で読んだきりだからです。
 でも、現在炎上している「胸をもみたい」。これは、炎上させている(させたがっている?)側の悪意か切り取りによるもので、むしろ「チェンソーマン」は、
・合意の重要さ
・相手との関係性の重要さ
をちゃんと書いている作品だったと思います。

 これは、「男性は、どんな相手でも、相手が女性(女体)であれば(とりわけ容姿のよい人であればなおさら)、『さわりたいし下着を見たいし肌を見たい』と思うだろう」といった考えがメジャーなジャンプとは一線を画すアプローチではないでしょうか。
 私は『僕とロボコ』が大好きなんですが、「傷つけない笑い」という読み味のある『僕とロボコ』にも、そういった「前提」は普通に存在します(脱線しますが私はガチゴリラがしわ寄せをくらっていたりすると心配してしまうくらいの気弱人間です)。
 その中で、デンジくんは数少ない、「だれでもいいわけではない」に辿り着いた人なんです。

 「前述の男性の欲求が当然とみなす世界観の是非」はめちゃくちゃ難しいので措いておきますが、私がお伝えしたいのは、デンジくんという存在は、「性欲を向ける先の相手の存在を自覚している」という点で、ジャンプ漫画では珍しい在り方を提示してくれるということです。
 そのほか、デンジくんの生育過程的に「愛されたい」と「性欲がごっちゃになっているのでは」的な考察もそれはそれで確かにと思ったりしますし、「ポリコレ的な擁護のためにデンジの性欲に意味づけをする必要はない、性欲は性欲として肯定されるべき」も「加害につながらない形ならもちろんそうだよね」くらいに思っています。
 というわけで、私のここまでの話が、「ポリコレ的擁護」であるのは否定しません。「こういうことだから、『チェンソーマン』の性欲の取り扱い方をポリコレ的な基準で燃やすのは違うのではない?」という擁護側の立場です。

 だた、「表現の自由」は「なにを描いてもいい自由」ではありますが「どこで何を描いてもいい自由」ではないです。上でちらりと触れたとおり「加害に繋がらなければ」というのが大事な観点でもあるのは確かだとも思っています。
 Twitterではいろんな意見が飛び交うので、使う側が自衛するのが大前提ですが、当然「性的な対象として見られること自体への嫌悪、恐怖」は、とりわけこれまで被害者の立場に置かれることの多かった側が想起しても全然不思議ではないです。
 もしも『チェンソーマン』の広告がそういったものを切り出していたら私は不快に思います。相手が「受け取らない」というのを選べない状況で、一部のターゲットのために、ターゲット外に対して嫌悪・恐怖を無頓着に押し付けるのは最悪だと思っています。正直、そういう広告も多いです。性的搾取を描いた作品を被害者側も目にする媒体で晒すことは、加害行為の一種だと私は感じています。

 どうか、ファンはゾーニングの中で楽しみ、苦手な人はゾーニング外に出てこない限りはかかわりを持たない、というスタンスが広まりますように。


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