見捨てられ不安。

 「相手が自分を置いていなくなってしまうのではないか」という不安感を「見捨てられ不安」というのだとどこかで読んだ。私はまさしく見捨てられ不安が度を越えて強い人間である。

 この不安感について調べると、ほぼ必ず「親との関係が原因」とか「アダルトチルドレン」「インナーチャイルド」という言葉などに帰着する。子どものころ、親にじゅうぶんに愛されなかったことが、この不安感の根っこであるという話である。

 この話に行きつくたびに途方に暮れてしまう。私は親にじゅうぶんに愛されていたようにしか考えられないからだ。どちらかというと記憶力はよくないが、「そんなことはなかったような実感」があれば十分ではないかと思う。内なる子どもが泣きわめくのは、実際はどうであれ「愛された実感」がうまく得られなかったときだから。

 母親は専業主婦。三歳離れた弟がいる。母親が弟ばかりを大事にしていたように感じたのだろうか。手がかかる弟で、それに対して私は優秀だったから信頼されていた。けれどそれは寂しさなどとは無縁の取り扱いの差だったと思う。父親も、小さい頃は出張が多かったが、都度お土産を買ってきてくれた。

 父方の祖父母も同居していたがどちらも私に甘かった気がする。実家は祖母の運営する文具店で自販機があった。小さい頃はお菓子やアイスも取り扱っていた。よく食べさせてもらった。

 母方の祖父母も甘かった。実家と母方の祖父母の実家は車で十五分弱と近く、「実家では見られないアニメを見るために遊びに行く」なんてこともざらだった。

 祖父母世代は父方の祖父を残してみんな鬼籍に入ったけれど、父方の祖父、両親ともに、年末に帰省した時は全員が驚くほど「子どもファースト」だった。こんなにも私の意思が通るように配慮してくれていることにようやく気付いた。


 こんな風に生まれ育って、どうして「見捨てられ不安」が発動するのだろう、とほとほと困る。

 見捨てられ不安の原因は「自分など愛されない」という認知で、そう考えてしまう自己肯定感の低さを、親からの愛情によるものと考えているから、原因を親に求めるのだろうか?

 自己肯定感は確かに低い。ひたすら自分を「こういうのでおっけー」と肯定し、誉めて、そもそも褒められるところなどないような有様でさえ「生きてるだけでおっけー」と言い聞かせて、今も叩き上げている最中である。だいたい「ほめること」を毎日三週間続ければマシになるという話だったが、どういうことだか私は効果を実感するまで三か月くらいかかった。今だって、感情が限りなく滅入っているときになんとか自分を肯定していると虚しさで泣けてきたりする。


 だが、そもそも私のこの自己肯定感の低さはなぜ植え付けられたのだろう。考えられる原因は、いじめ・不登校・長く付き合った人の浮気あたりだろうか。小学校低学年、中学校と、環境を変えて二度もいじめに遭遇したのは自分のパーソナリティそのものに問題があるのではないか、と思っても仕方がないかもしれない(というか実際当時の自分は人間関係を構築するのが下手すぎたと今でも思うし今でも下手だ)。不登校は、そんな自分でも受け入れてくれる先があったということで、むしろ自己肯定感的にはプラスな気もしている。浮気については、浮気をした当時の彼は浮気相手とめでたく結婚している。こちらが婚活中なので惨めに思うことはあれど、復縁したいとは欠片も思わないし、この失恋のおかげで心身ともに劇的に飛躍した身としては、これも感謝しかない。

 と、思ってはいるのだけれど、各種挫折に対してよい意味づけをしているつもりではあるのだけれど、これがなにかを抑圧しているのだろうか? 一年半にわたって嘘をつかれていたことは確かに辛かった。振られたときもひどかった。立ち直るのに丸一年くらいかかった。ありとあらゆる部分において自分を変えた。その「自分を変える」という行動は自己否定から来たものだったのだろうか。

 掘り下げようとしても掘り下げられない。


 ジョン・グレイの本、最近の研究結果を踏まえると全部を鵜呑みにしていいわけではないけれど、わかったうえで自分に使える部分を使おうとして、「取り乱したときにはラブレターを書くといい。そうすると、過去の傷ついたことの癒しになる」というのがあったから、ラブレターを書こうとしてみたけれど、その宛先を追い求めるためにつらつらとこれを書いてみたところで宛先不明のままだった。

 心底、この「見捨てられ不安」を癒したい。「そうしたら事態が好転する」というタラレバ的縋り方に映るような気もするけれど、不安に振り回される状況を脱することは、それ自体とパートナーシップの結果の因果はともかくとして、自分の精神安定として考えただけでプラスしかないだろう。

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