「心は女性」って、なに?

 とてもセンシティブなお話だと了解したうえで、私は「心は女性であるから自分には身体女性のエリアを利用する権利がある」は受容しかねる立場です。
 というのも、「心は女性」という言葉が、本当にわからない。

 「女性」というのは、「身体が女性である」以外の何物でもない。
 「かわいいものが好き」、「ピンクが好き」、「スイーツが好き」、「化粧が好き」、このあたりは単なるジェンダーバイアスであり、「これら『女性に多い』と言われる要素に該当するからと言って『女性』ではない」と思います。
 だって、「かわいいものが好きで、ピンクが好きで、スイーツが好きで、メイク大好きな身体男性」の何が悪いのかわからない。

 「自分の男性としての体に違和感がある」という場合に限り、「女性の体がしっくりくる」という点で「女性」に近くはなると思います。ここまで来たら、銭湯や更衣室やトイレはだいぶ境界が難しくなってきますが、望むべくは、「性別を変えた結果女性の体になった人」用のエリアが望ましいと思う人が一定数いるのだろうと思います(私の現状の考えでは、体の性別まで変えたならまあその体のエリアを使ってもいいのでは……と思いもするけれど、これは浅学ゆえかもしれないです)。
 けれど、それ以外のケースでは、何一つとして「女性」が戦って勝ち得たエリアを得る理由にはならない、というのが私の立場です。

 「体の性別」による区別のされた環境は、そのまま「身体女性」のシェルターの役割を果たしています。それを「心が女性」という、「身体女性が苦しめられてきて解体を望んでいるジェンダーバイアスを盾に、シェルターを侵害してくる」という、二項対立でいうところの「相手側」の利益だけが幅を利かせる状況を、到底容認できません。

 また、「心が女性」の場合(また、「後天的に女性の体になった」という人もこちらになるとは思いますが)、「身体女性がこれまで味わってきた負の経験」がないゆえに、この人たちを「女性」枠に入れてしまうことで、身体女性の多くが直面する被害・問題を見えなくしてしまうことに大きく懸念されています。
 もともと身体女性でなかった人、そして、ある程度キャリアを築いてから「女性の身体(あるいは「心だけは女性」)」を「選択」した人は、「身体が女性というだけで受ける理不尽」を味わってきていません。
 妊娠・出産に言及すると、それは「先天的な女性」でも多岐にわたるので難しいですが、「先天的な女性」は当人が妊娠・出産に関係ない場合でも、現代日本においては様々な場面で「身体男性」とは異なる扱いを受けます。
 それをすべて「なかったこと」にしてしまう、「後々女性になった人」を、「先天的な身体女性」と同一に語るのは、非常に違和感があります。

 性別は二つである必要はないと思います。
 「身体男性かつ男性の体に違和感がない人」、「身体女性かつ女性の体に違和感がない人(女性を望んでいるかは別)」に加えて、「女性の体を選んだ人」、「男性の体を選んだ人」が存在して当然と思います。
 けれどそこには、ジェンダーバイアスを根底にした「心は女性」「心は男性」の入る余地はないです。厳格に、厳密に、生物学的に「体がどちらか」で区別可能な状態こそが「性別」です。
 「先天的な性別とは異なる性別を選んだ人」というのが、もっともっと尊重されることは、私も心から望むところです。それは「先天的な身体女性」を守ることでもあり、「先天的な性別に違和感を抱く人」の思いの行き場を作ることでもあると思います。

 どうか、「ジェンダー不平等」にちゃんと気づき、「ジェンダー解体」を進め、ジェンダーバイアスをおおっぴらに掲げた性犯罪と身体女性に対する権利侵害を許さず、そしてすべての人が自分の「体」に納得できる世になることを祈ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?