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104 「暗黙の了解」という独りよがり(若い人たちと自分②)

僕は「暗黙の了解」が嫌いだ。ついでに言うと、「根回し」も。

理由は「初心者殺し」だから。

新任の頃、体育大会の準備で朝早く出勤するともう先輩がラインを引いている。用具を運び、生徒といっしょに放送のリハーサルをしている。血の気が引いた。「そうか、行事の朝はいつもより早く来ないといけないのか」と悟り、以降、行事にはいつもより何本も早い電車で職場に向かった。

何も知らない僕より若い先生。「今日って、朝早く集合するってなってましたか?」と聞かれた。「うーん。行事の日って、どうやら早く来なあかんらしいよ。ええやん、知らんねんから。気にせんでいいよ」と僕はそのとき言ったように思う。

始業式、終業式。いわゆる「式」がつくときに、ネクタイをして臨む。実際、慌てた経験がある。これも暗黙の了解。以降、ネクタイは職場に常備し、上から羽織れるジャケットも置いている。何かあったときに。

経験則でなんとかやってきたけど、こういうのでいちいち咎められたり、小言を言われたりしたらたまらんだろうな、と思う。正直、腹が立つ。なぜ教えてくれないのか。一言、誰かが言ってくれたらそうするのに。

嗅ぎ分けるのが当然? いやいや。

この世界はこうだよって、あなたたちは知っているかもしれないけど、知らない人からしたら地獄のルールでしかない。それなのに、暗黙の了解を破ると総スカン。傷ついた上で「どういうことですか?」と歩み寄っても「こういうときはこんなもんや」と言うだけ。そこから丁寧に説明されても、後出しジャンケンは最強なのだ。

その世界のルールを知らない人を大切にしない世界は絶対に滅びる。そんな簡単なことを、大(だい)の大人がわかっていない。しかも余りにも多い。もうそういう時代ではない。きちんと説明していない側が圧倒的にダメ。ここが出発点で、思うにこれには異論を挟む余地はない。

長くその業界にいる人は、得てして必要な説明を省き、それを「やる気」とか「良心」とか「センス」の有る無しに帰着させる。教室でも同じで、教えていないことで叱るのは反則だ。たとえ躾であっても、あとから愚痴を言ってもいいから「こういうときはこうだよ」って、その場では振る舞うのが本当の大人のあるべき姿だ。

若い人が育たない、というのは詭弁。若い人は失敗は怖いし、どうしたらいいかわからない。やればいいのにっていうこともできない。昔は当たって砕けて、失敗して凹んでも居酒屋で解決できた。今は違うのです。

初めて自転車をこいだときの気持ちを覚えていますか。進学したときの正門をくぐったときの気持ち。初打席。初めて試合に出た数分間。初めて親知らずを抜くとき。初めて車を運転したとき。初めての職場に出勤して、楽しげに話す先輩たちの姿。トイレの場所さえわからない、あのときの不安。

暗黙の了解は独りよがりだ。他者を排するものでしかない。少しく経験のある人は「こんなことまで?」ということを相手に聞いてあげて、はじめて今日的な会話や対話が成立すると、そろそろ気づかいないといけない。

学校は初任者の育成がほぼ機能していない。最前線にいることを求められ、ベテランが何も知らない若手をなじって、意味の分からないアツレキを生じさせることさえある。不毛な戦いだ。

根回しもそう。それが仕事のできる人の真骨頂みたいな空気がいまだにあるけど、これには辟易する。「聞いていない」っていう人もいるらしい。怖い世界だ。

やりすぎるくらいがちょうどいい。だんだんと減らせばいいから。相手の目線に下りる、などと思っているようではダメ。それがスタンダードである。何を言っているのか、と思う。

「見て盗む」時代は終焉した。僕も腹をくくって、一つずつ意味づけ価値づけして、若い人とやっていきたい。

スギモト