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93 子どものまなざし(0) 〜子どもは何を見ているのか?〜

子どもが見ているものを見ていますか。見ようとしていますか。


僕のタイムラインで「せる・させる」の話題が出ていました。指導案を作るときに出がちな言葉です。「生徒を使って準備を…」とか、そういうのもよく出てくる表現で、昔は何のためらいもなく僕も使っていました。

考えさせる。ウチの部の子を使って。窮屈だから、これらの表現の是非は議論しません。そういうのは僕にとってどうでもいいことです。

今回はこういうことを言いたくて書いています。

幼い子と手をつなぐとき、大人は下を向いて話します。子どもは首を上げ、大人のほうを向いて話します。下を向くのは割と簡単で、日常でもよくある姿勢です。

でも、上を見上げるという行動はけっこう疲れるものです。子どもはそれでも必死に上を向き、大人に話しかけます。大人を見ようとしているのです。なんとかして大人の顔を見て、話そうとします。

そのうち、大人が子どもに本当に話したいときは、しゃがんで子どもと同じ高さで話します。子どもが泣いているとき、聞き分けがないとき、言って聞かせたいときと様々ですが、どうにかして伝えたいときは大人はそうするものです。

子どもと同じ高さになってふと目をやると、こんな高さで世界を見ているのかと、はっと気づくことがあります。遠くは見えないけど、地面はよく見える。そんな世界です。

子どもと同じ目線に立って、という言葉は昔からありますが、どれだけの大人がそれを実践しているでしょうか。しようとしているけど、子どもが見ている風景まで見ようとしているでしょうか。比喩的な表現ですが、僕はいつもこういうことを思って、子どもたちと接しています。なかなか同じ高さには立てません。立っても、つい大人の都合で返してしまいます。

単に「ほんまやなあ」と、言ってほしいだけなのに、大人はそれが言えません。

なぜなら、大人だからです。


多賀一郎先生が「子どもの話はめんどくさいねん」と、ある時おっしゃったことがありました。長年小学校で指導されていた多賀先生のこの言葉に「ほんま、それやねんなあ…」と一人で大きくうなずいていました。

子どもの話はちゃんと聴こうと思ったらものすごく時間がかかります。大人だったらもっと簡単にまとめられるのに。中学生も同じでした。こっちの心理状態いかんで、言っていることを汲み取れないことが多々ありました。

子どもが見ているものが何かはわかりません。もちろん、考えていることも。でも、見ているものや考えていることを知ろうとすることはできます。

だいたい、人が考えていることがわかるなんて、幻想です。もしそんなことができたら人付き合いなんかできません。

「私、おまえのことキライやねん」って、相手が思っていることをわかって会話はできません。

校則だから、それが社会のルールだから、それはあなたが経験不足だから、何もわかっていないから、若いから。

一蹴されて凹む子たち。どこかでそういう子たちを救う言葉があります。そういう場があり、そういう人がいて、また膨らんで、明日を生きる。そんな感じではないでしょうか。

「ほんまやなあ」と、言ってほしいだけなのに、ね。


数年前に北海道の大野睦仁先生、東京の吉田博子先生と「子どもへのまなざしを考える会」というセミナーを開催しました。神戸の小さな部屋でした。僕のなかではとても良い時間になり、大いに意味のあった会になったと自負があります。ただ、「子どもへの」という視点は大人からの視点です。あれから数年、自分の中でもっともっと深いところに目を向けていきたいと思うようになりました。

先生としての年数だけはイッチョマエに経ってはいますが、反省の多い毎日です。謙遜なしに「もっとうまく関われたよなあ」としょちゅう思っています。

そこで、ある行動や発言から、子どもが何を見て、考え、求めているのかを自分なりに考えていこうと思い到りました。このシリーズは僕の思考の断片であり、拙い、自分の〈みたて〉を整理していくものです。とりとめないときもあると思いますが、あたたかく、そして厳しくご覧いただけたら幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。

スギモト

多賀一郎先生のご著書

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