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松永事件・写真家 中平卓馬とやもり

中平卓馬が写真家人生において考え方を大きく方向修正することとなった極めて重要な出来事が起きている。 1971年11月10日沖縄返還協定批准阻止全島ゼネストである。この闘争で一人の警官が死亡、 その時の読売新聞に掲載された二枚の写真が証拠とされ、一人の青年が逮捕され殺人罪で起訴される。いわゆる「松永事件」である。事件、裁判の内容についてはここでは省略させてもらうが、2002年7月東松照明展「沖縄マンダラ」記念シンポジウムで、中平はコメントをしている。

「1971年、新聞に掲載された一枚の写真によって警官殺害の罪に問われた青年を救出するために初めて沖縄に行った。現在住む横浜に越してきて間もない頃のこと、沖縄出身の電気屋さんが、プレーヤーの修理に来てくれた。喜納昌吉とチャンプルーズの島小(しまーぐゎー)ソングを聴かせたところ、彼は「これは大昔の歌ですよ」と言った。だが、私、彼の言葉は真実だろうかと新しく考え始めた。確かに1977年に記憶を失った私の沖縄は、1970年で止まり、私、その固定概念にこだわっているのかもしれない。だが、私、あえて自ら引き受けざるを得ない問題を引きずりつつ、2002年に沖縄に行って撮影し抜くことを考え始めた。沖縄県人なのか、琉球人なのか!そして<琉球>はもうなくなり、沖縄は日本最南端の一地方になってしまったのか。その一点を考え始め、私、カメラを持って沖縄に出発します!」

ー 写真の記憶 写真の創造 東松照明と沖縄より

1977年3月アサヒカメラに「国境吐噶喇列島」発表、その夏に記憶を失い、翌年、退院後に沖縄旅行をする。松永事件を機に中平の人生は深く沖縄に関わることとなる。裁判中の中平の心境をやもりと蛾に寓意したかのような重要かつ秀逸な一文がある。のちに「GECKO・やもり」(300冊限定エディションナンバー付き)2013年発表、アフターワードにも掲載される。

「四年前の夏だった。亜熱帯のその島で私はある裁判にかかわり、ほぼ一月くらいをそこですごした。毎日が猛暑の連続だった。昼間は街へビラまきやカンパをやった。強い日差しに焼かれて両腕の肘から先は軽いケロイド症状をおこしていた。疲れきっていた。
・・・
 街は静かだった。私の位置からは外は見えなかった。だが天井に映った光の反映で街の動きがそれとなく知れた。街はいま一番深く眠っていた。私の視線はその時、蛍光灯が吊り下げられている左側の方形の中の1匹のやもりの上にとまった。この地方にしてはそんなに大きなものではなかった。体長4、5センチの小さなやつだった。いつごろからやもりがいたのかわからなかった。それまで私が気づかなかったのかもしれなし、たったいま、そこにやってきたのかもしれなかった。体色は全体に土壁色をしていた。背中にそれと目立たないくらいに赤味がかった斑点がいくつかあった。足が左右対称に開かれ、後足が幾分大きいようだった。指が5本、扇形に開かれ、それを吸盤となって天井にへばりついているのだ。
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その時私は気づいた。やもりは明らかに何かに向かって進んでいるのだった。私の視線はやもりの頭部から、20センチほどのところ、方形の対角線上、蛍光灯の吊されている根元近くに、1匹の大きな蛾がとまっているのを発見する。やもりは蛾に気づかれぬようにしのびよってゆく。やもりは先ほどまでの動きを正確に繰り返しながら前進する。1回に2、3センチの前進。目標地点にたどりつくにはまだ相当な時間がかかる。私には,やもりと蛾との間に距離が不当に大きく感じられた。この小さなやもりには、気が遠くなるような理不尽な距離だった。
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この一部始終を最後まで見とどけることが義務であるかのように、私はやもりの動きから眼を離すことができなかった。すでに蛾はやもりの射程距離にはいっていた。それは一瞬のできごとだった。やもりはいままでのどの動きよりも速く一挙に5、6センチを跳び、蛾を一飲みにしてしまった。どうしてあの大きな蛾を一飲みにすることができたのかまったくわからなかった。翅の一部が口からはみだしていたが、やもりは口を動かすわけではなく、そのままその位置にとどまってじっと動かなかった。」


ー 決闘写真論ー視線のつきる涯て / 中平卓馬 1977年(一部抜粋)


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