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『透明な膜を隔てながら』を読んで

図書館で、ふとした事で手にした李琴峰さんのエッセイにとても感銘を受けたと共に、考えさせられる内容であったため、ここへ書き記そうと思います。

LGBT、マイノリティーということに関しては、今や、恐らく世に溢れんばかりのコンテンツとなっているかと思います。しかしそれは当事者達にとっては古から存在していたものであり、何を今更!と思う方も多いのではないでしょうか。
ただ、そういった言葉が生まれた背景には、マジョリティーと言われる方達の意識が変わってきたからだと思うのです。因みに自分は恐らく後者の方よりなんだと認知しています。しかしそこには琴峰さんが記されている『透明な膜』が未だ存在し、中々その間を行き来することが困難であり、互いを理解することが難しい状況にあります。
世の中、様々な意見や考え方、生き方が共鳴し合ってこそ、面白いんだと思います。
大事なのはマイノリティーの方達を安易に理解しようと、或いは理解したつもりでいる人達を足蹴にしてしまうのではなく、マイノリティーと言われている方々に真摯に歩み寄ろうとされている方々もいるということ、又、逆にLGBT、マイノリティーといった言葉で安易に括られてしまうことで、生きづらさを感じてしまっている人達もいるという事実に、マジョリティーと呼ばれてる人達は気づき、共生していかなければならないと思います。

最後に、、、マイノリティーと呼ばれてる方々が何を以って『生きやすい』と感じられるのか?恐らくそれについて、お節介に、悩んでおられるマジョリティーと呼ばれてる方々が数多存在すると思われます。是非意見をお聞かせ下さい。

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