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なんでエッセイが好きなんだろう?

エッセイってなんのために書くんだろう? なんのために読むんだろう。ふとそう思った。エッセイなんて、言ってしまえば読まなくても別に支障はきたさない。それなのに手にとって時間をかけて読んでしまうのはなぜなのか。

憧れの人の感性を知りたいから? 丁寧な日常の雰囲気を感じたいから?

そうかもしれないし、全然違うかもしれない。そんな風に、自分のエッセイ好きに対して立ち止まって考えたのは、ある単純できれいな言葉の一節に出会ったからだ。

朝食は梨ひとつ。うすく刃をいれる。どこまで長く、つなげられる。むくというより、けずる。みずみずしいのに、ざらついて、すべる。

石田 千さんの「からだとはなす、ことばとおどる」。

一見とても単純、かんたんな文に見える。なんだかありきたり。一瞬そう思った自分を殴りたくなるほど、今はこの人のエッセイが大好きだ。

日常的によくある動作をこんなにジっと観察して、詩的な言葉でリズムをつけて残すなんてこと、私にはできない。こんなにゆっくり時間をかけて生きていない。五感もこれっぽっちも使っていない。梨ひとつを食べるまでがこんなに美しいんだって、これを読むまで気づきもしなかった。

作者さんはそんなせっかちな私を、ぽんぽんと地面を叩いて座らせる。携帯もネットも全部切って、今日食べた物の話やら昔の恋の話、天気の話をしてくれる。そんな時間が大切だから、私は一緒に地面に座っている気になってこの人のエッセイを読む。

私がエッセイを読む理由はそんなところ。願わくばそれを今度は自分でできるようになれますように。あったかい地面に座って、ぼうっと自分の「美しいなあ」と思った心と付き合っていきたい。そんな風に思います。



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