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私的に2022年をふりかえり、居場所について考えてみる

居ることとは何か

考えてみると、今年は居場所についてずっと考えた一年だった。そのきっかけとなったのは、「居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書」(東畑開人著)という本だ。これまで、ぼくは、居場所とは何か、ということについて全く考えてこなかったわけではない。例えば、学校で子どもと楽しく過ごした教室や同僚とコーヒーを飲みおしゃべりする職員室、ゆっくり過ごすことができる我が家など、居心地のいい場所=居場所だと考えてきた。その考えは今も基本的には変わっていない。一方で、居場所はいつでも居場所でいられるわけではない。あるいは、居心地のよさは時と場合によって違い、同じ場所でも居心地の悪さを感じることもある。物理的な場所はあまり重要じゃないかもしれない。どこにいたって、誰かといれば居心地がよい、ということもあり得る。あるいは、誰かいない方が居心地がいいこともある。こんなことを考えていた。

居場所の目的

「居るのはつらいよ」では、居ることとケアの関係が精神科デイケアを舞台に、実話に基づいた架空の物語の中で展開されていく。そして、ケアと居ることは深く関わっていることが見えてくる。筆者は時折、中井久夫の著書から重要な言葉を引用するが、偶然にも今年、中井久夫が亡くなった。ちょうどその時読んでいたのが「心の傷を癒すということ」(安克昌著)であった。「心の傷を癒すということ」は、阪神淡路大震災で居場所を失った人たちの心のケアをどう行うために奔走した安克昌の記録であり、そこに描かれていたのは繋がりの再構築のプロセスだったように思う。その流れで「看護のための精神医学」(中井久夫箸)をななめ読みしてみたりもした。これらの文献を読んで気づかされたのは、居ると言うことは、何かを目的としていないということである。何かを目的にしないということは、前に進めなくてもよいということだ。一方で、何かを目的としないからこそ、人は前へ進めることがある。

居られないぼく

自分自身の生活に話を戻すと、私は、とある場所で、週に一回小学生と過ごし、また別の場所で週に二回、子ども連れの親子と過ごし、さらに別の場所で、地域のママ友や子どもたちと過ごしている。だけど、これは思ったよりラクじゃない。孤独と安心と散漫が慌ただしく入れ替わる。寂しくなったときは、たくさん話してくれれ人がいると安心することもあるし、いろいろな情報に触れすぎて、どこかに隠れたいときもある。その意味で、ぼくはまだ、そこに居られていないのかもしれない。常に何かをしようと考え、何かをして気持ちを落ち着ける。そして、その何かは、目的がなければならないと考えている。ぼうっとできない。頭の中が常に動いている。そんなわけで、マインドフルネスについても勉強したみたが、頭の中を空っぽにすることはできない。

つながりから隠れる居場所

そういえば、ちょうど、ほぼ同い年の友人が仕事を辞めた。さらにもう一人、辞めることを考えている。学校を離れた私から始まった、辞任のドミノ倒しはまだ続いている。かれらもまた、わたしと同様に、その場所に居ることにどこか難しさを感じて、別の居場所を求めているのだ。過剰に接続した世界から距離を置き、自分を取り戻す、そんな時間を過ごすことが必要なのかもしれない。ぼく自身も、最近食傷気味。繋がりすぎたつながりが混戦し、わけがわからなくなり始めている。先日も居場所について三時間話し合った。でも結局よくわからないままだ。だから、この冬休みブレークはとてもありがたい。

居場所再考

夏頃、コロナにかかって自宅待機になった時も感じたのだが、ぼくは強制的に繋がりを絶たれないと接続過剰になる傾向があるようだ。コロナブレークでなんだか本当の自分らしきものを取り戻せた気がする。そこでもやっぱり居場所について考え続けたわけだが。暇つぶしに、夏ごろに一つの文章を書いた。とある懸賞に応募して、あえなく選外になってしまったのだが、どうしても世に出したく思っている(その文章も居場所を欲してるのだ)。タイトルは「多様性と居場所の哲学」。自分でもまとまらないまま書き出し、何度も修正をしている間にあっという間に締め切りが来て、えいやーで出した稚拙な文であるが、きっと、ひとまずいまのぼくが考えていることが凝縮されているのではないかと思う。ちょうど数日前、ぼくの中に生まれた問いに、この文章は、稚拙で不器用ながらも寄り添ってくれている気がした。もちろん、明確な答えが出ているわけではない。でも、この問いに、一石を投じるものにはなっているのではないだろうか。

居場所についての問い

ところで、数日前に話し合った居場所についての会、まとめると(全然まとまってないけど)こんな感じになる。

居場所を必要としている人は、社会で傷ついた人たちである。だから、居場所はある傷ついた人が逃げ込むための隠れ家的存在である。
その意味で、居場所は社会の中にとりまれた瞬間に消える。居場所は社会からある程度離れている必要がある。にもかかわらず、社会は居場所を必要としている。社会には開かれている必要がある。すると、その社会の中に居場所が存在することになる。ところが、その瞬間、居場所は消える。だから、社会全体を居場所にすることが必要である。でも、果たしてそんなことは可能なのか。全体が居場所になったそのとき
、それはもはや居場所ではないのではないか。

よかったら、これからnoteに挙げていく文章にリアクションしていただけると嬉しい。文章は、何回かに分けて、一月中にゆっくりアップしていければと思う。

そういうわけで、本年もまことにありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。

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