家に帰ろう。 #シロクマ文芸部 〜ただ歩く〜約5400字

「ただ歩く、それだけですよ」
電話の相手が言った。若い女性の声、おそらく20代ぐらい。優しくて丁寧な印象だ。
「わかりました」
そう言って俺は電話を切った。

同級生の連帯保証人になり、300万円の借金を背負ってしまった。そいつとはそれほど仲が良かったわけではないが、まさかこんなことになるとは想像もしなかった。その後奴とは連絡が取れなくなり、代わりに連絡をよこすようになったのは取り立て屋だ。自分の浅はかさを呪うしかなかった。

家族には言えない。自分だけで何とかしなければ。そう思い、高額バイトを探すことにした。所謂闇バイトだ。そして俺の目に入ってきた文字。

歩くだけ。日当300万円。

怪しいのはわかっていた。だが、「歩くだけ」だ。強盗や詐欺とは結びつかない。一回だけ。たった一回だけだ。もし騙されて過ちを犯したって、俺も騙されている側だ。それで借金が片付くんだ。危ぶむ自分にそう言い聞かせ、書かれていたアドレスにメールを送った。

連絡は非通知で、端的に指示をされた。テレビなんかで聞いたような、家族の情報を押さえられたり、身分証明書のコピーを送らされるなんてことはなかった。

集合は北海道の富良野市。宿泊場所は用意され、ICカードと航空券も送られて来た。至れり尽くせりの対応に、逆に不安を煽られた。

最後の連絡から2週間後、俺は富良野にいた。宿泊場所は立派なホテルだったが、その夜は熟睡することが出来なかった。夕方に空港に着き、ハイヤーで移動。ホテルの夕食は豪華なバイキングだった。こんなにわからないことだらけの旅は初めてだったし、北海道に来たのも20年以上前の修学旅行以来。富良野もやはり初めてだ。得体の知れない不安とせめぎ合うまま明け方になり、陽が昇り始めた頃ようやく睡魔のお迎えが来た。

「集合時間は21時厳守です。歩きやすい服装とスニーカーでいらして下さいね」
昼過ぎに目覚めると、端的で気の利いたショートメッセージが入っていた。

歩きやすい服装にスニーカー。歩くだけ。北海道まで来て、俺は競歩でもするんだろうか。それで300万?そんな馬鹿げた話もないよな。くだらないことを考えて無理にでも心を落ち着かせようと試みるが、それは難しいようだ。何にせよ、集合が夜で良かった。もう少しだけ寝て、体を休めることにしよう。

17時まで仮眠を取って、シャワーを浴びた。夕食はルームサービスで済ませ、入念にストレッチをする。学生時代はサッカーをやっていたが、それももう遠い昔の話だ。それ以来運動らしい運動はしていない。どれだけ歩くのか検討もつかず、この仕事が決まってから、ランニングや筋トレをして最低限の準備だけは整えた。

時間が近づくにつれ、不安と緊張で逃げ出したい気持ちが強まるが、ここまで来て逃げる勇気もなかった。たかだか300万円、妻に素直に謝って、必死で頑張ればなんとかなる金額だ。だが、それも出来ないくらい妻の藍理との関係は冷めきっている。こんな話をしたら離婚を切り出されるかも知れない。あの女に慰謝料を払い続ける人生なんて真っ平だ。俺は自分を奮い立たせ、集合場所へ向かった。

ホテルから歩いて10分程、指定された集合場所に着くと、3台の黒いワゴン車が停まっていた。時刻は20時45分。街灯もろくにないから、車のライトが無ければ普段は真っ暗闇だろう。

「中山さんですか?」
聞き覚えのある女の声、電話でやり取りしていた相手だ。ライトの灯で一瞬見えた女の顔は、若くて垢抜けた、お世辞抜きで美人と呼べるレベルだった。
「はい」
「本日は宜しくお願い致します」
電話の時と同様、丁寧な言葉遣い。
「はい、宜しくお願いします」
俺も挨拶を返した。
「では失礼しますね」
女がそう言うと別の黒服の男が現れ、手際良く俺に目隠しをした。
「これ…」
「ごめんなさい、質問にはお答え出来ないんです、そういう決まりなので。目隠しは、これから移動する場所は知られてはいけないのでして頂きました」
俺の言葉を遮ると、女はそう説明した。決まり。何かしらのルールの元に、コイツらも動いているってことか。

間も無く車に乗せられ、移動が始まった。目隠しのおかげで、何処に移動しているのかは全くわからない。ここまで来ると、不安や緊張より諦めが優ってきた。なるようになれ、俺はそう思い始めていた。

車内には複数の人間がいるようだった。中には不満を声に出す者もいたが、誰も反応せず、車内は沈黙の時間が過ぎていった。

そう時間はそうかからず目的地に着いた。車が停まると、俺たちは順番に外に出され、事前に決められていたであろう場所に連れていかれた。昼間は夏らしく暑かったが、今、外は静かで涼しく、木々が風に揺れ、カサカサという音だけが聞こえる。その穏やかさとは反比例して、自身の置かれた状況への恐怖心が、少しずつ膨らんでいく。そんなこちらの思いとは無関係に、準備が整ったようだった。目隠しが外された。

「皆様、本日はご参加ありがとうございます」
場違いな明るい声で、さっきの女がアナウンスした。
「皆様にして頂くことは、ただ歩く、それだけです。それだけがルールです」
ンッと喉を鳴らし、女が説明を続ける。
「私がヨーイ、ドンって言ったら歩き始めて下さい。ペースは皆さんの自由です。競争する必要はありません」
「あの…」
違う女の声。参加者には女もいるようだ。
「質問にはお答え出来ません。皆様は、ただ歩いて下さい」
にべも無い。
「それではそこに引かれた白線に、横一列で並んで下さい」
俺たち参加者は、白線の所へ移動した。10名くらいだろうか。競争ではないと、女は言っていた。いずれにせよ、歩ききれば300万円を貰えるのだと、最後にもう一度、自分に言い聞かせた。

「それでは位置について、ヨーイッ…ドン」
女の声と共に、俺たちは歩き始めた。

ただ歩くだけ、ただ歩くだけ、脳内で反復しながら歩を進める。先は暗くて見えないが、道路は舗装されていて歩きやすい。俺たちの後ろを、ゆっくりと黒いワゴン車が追走している。ただ歩くだけ、ただ歩くだけ。

そうして歩き始めて300メートルぐらいだろうか、参加者の一人が立ち止まった。
「すみません、トイレに…」
そう言いかけた刹那、パンッと乾いた爆発音が鳴り響き、そいつはその場に前のめりに倒れ込んだ。
「井口尚人さん、ゲームオーバーです」
あの女の声が闇に響き渡り、倒れた男が回収された。銃で撃たれたのか?まさかとは思うが、他に想像することが出来ない。
「ちょっと、これどういう…」
さっきの参加者の女が声を出すと、またパンッと銃声が鳴り響き、そして倒れた。
「坂井亜子さん、ゲームオーバーです。ダメですよ、皆さんは、ただ歩くだけです」
人を二人も殺しておいて、まるで子どもでも叱るかのような言い方だ。

怒りと恐怖がないまぜになり、理解の追いつかない状況に俺はパニックになりそうだった。かと言って、何かすれば直ぐに撃ち殺される。どれほど歩くのかもわからず、目的は知らされず、質問することすら許されない。最悪、犯罪を犯す可能性は覚悟していたが、歩く以外の行動をするだけで殺される。こんなにも理不尽な状況を、想像出来るはずがない。逃げたいし泣き叫びたいが、こんな所で死にたくない。何も考えず、ただ歩くしかない、そういうことだろう。

「あーっ、こんなもんやってられっか」
参加者の一人がそう言い、道路の外へ走り出した。しかし逃げられはしない。間も無く銃声と共に倒れた。

これで三人目だ。正確な参加者の人数も俺は知らないが、同じ状況の人間がまだ数人いるのだ。意思疎通が出来ないから仲間意識も持てない。映画や漫画なら、力を合わせてこの状況を打開しようとかなるのかも知れないが、それもままならない。孤独に恐怖と戦うだけだ。

それからどれほど歩いただろうか。体感だが、一時間は優に超えている。徐々に体が重くなってきた。そう思って間も無く、後ろの方で銃声が聞こえた。
「佐野茂さん、ゲームオーバーです。さすがに七十過ぎのおじいちゃんには厳しかったですかねー」
現実味を損うように、あっけらかんとあの女が言った。老人すら簡単に殺すのか。しかし、俺はもう怒る気にもならなかった。人のことを気にする余裕はとうに失っていた。

ただ歩く。何も考えず、ただ歩く。無理だ。こんな雑念だらけの環境で、何も考えないなんて。そんなことを思っていたら、妻と小学五年生の一人娘の顔が脳裏に浮かんできた。

結婚して藍理が妊娠するまでは、自分では仲の良い夫婦だったと思う。楽しい思い出ばかりだ。だが、ちょうど妊娠のタイミングで役職が上がり、急に責任が増え、仕事が忙しくなった。妻が妊娠して大変なのもわかるが、仕事が止まってくれるわけじゃない。中小零細企業に育休なんて制度は今も有りはしない。休んだら休んだ分居場所が無くなり、評価が下がるだけだ。出産の日はかろうじて立ち会えたが、残業ばかりの日々に俺は疲れ切っていて、子どもが生まれたことを喜ぶ余裕すら無くなっていた。

子どもが生まれても状況は変わらなかった。妻と言い合うことも増えた。時折泣いていることも気づいていた。それでも俺は、仕事を全うすることが責任で、収入を増やすことが家庭の為になると思ってた。「仕事変えてくれた方が良い」なんて藍理は言うが、大した学歴も無ければ資格も持たない俺にとって、転職は簡単じゃない。

でも、そう思い込んで、決めつけて、環境を変えることから逃げている。それも心の何処かでわかってはいた。だからこそ、図星を突かれると言い返すしかなかった。家庭を蔑ろにしたいわけじゃない。俺だってこんな風になりたかったわけじゃない。自分でも認めたくはなかった。そんな俺を理解せず、責めてくる妻が、段々と鬱陶しくなっていった。

俺たちを繋ぎ止めていたのは、娘の藍那の存在だった。小さい頃は何をしても可愛いくて、欲しい物を買い与えた時の藍那の嬉しそうな顔が、俺の生きがいになった。でもそれも長くは続かず、成長するにつれ、藍理と一緒に俺を小馬鹿にするようになった。それもこれも全て、藍理のせいだと思っていた。女ってやつは…なんて、そう思っていた。

そんなことを考えている最中にも、何度か銃声が鳴っていた。あの女の声も。何人死んで何人生き残っているのか。歩き続けたら、一体その先に何があるのだろう。もう何が現実で、何が非現実なのかもわからない。俺にはただ歩く以外の選択肢が許されていない。振り向かず、前だけを見て、ただ歩く。

藍理が妊娠していた時、俺は何をしていたんだろうか。藍那が生まれてから、俺は何をしてあげたんだろうか。仕事では部下に「自分がやりたいことではなくて、会社やお客様が何を求めているか、それを感じ取らないといつまでも出世出来ないぞ」なんて偉そうに言っているが、家庭内での俺は、それを理解していたのだろうか。テレビやネットニュースなんかでよく見る、ダメ夫の典型じゃないか。他人事だと思って馬鹿にしていたアイツらと何も変わらない。理解を求めるばかりで、自分からは何も与えていない。

今、俺の目から流れている涙はなんだろう。過度な疲れか。死への不安や恐怖か。それとも、今までの自分への後悔か。わからないが、とにかくこのまま死にたくなかった。藍理と藍那に会いたい。今までのことを謝って
やり直したい。若い頃に思い描いていた、仲の良い、楽しい家庭を作りたい。こんな場所で、こんな訳のわからない状況で死にたくない。俺は生きて帰りたい。帰って二人に謝りたい。生きたい。生きたい。涙を流しながら、とにかく歩き続けた。

何時間歩いたのか、どのくらいの距離を進んだのか、全くわからなかった。歩き始めてから水分も食事も摂っていない。止まりたくはないが、意識が朦朧としてきた。黒のワゴンは変わらず後ろにいるが、他に人間の気配は感じられない。全員撃たれたのだろうか。少しずつ足に力が入らなくなってきた。ああ、俺もこのまま終わるのか…

ふぁさっと何かが腹の辺りに触れた気がした。

「おめでとうございます!中山さん、ゴーールーーーッ!!」
あの女がスポーツの実況よろしく、大声で叫んでいる。何が起きているのか、俺にはわからない。やがて力が抜けて、その場に膝を着いた。ああ、終わった、俺も撃たれる。もう全て終わりだ。そう思った。そして、そのまま気を失った。

目が覚めると、俺はベッドの上にいた。宿泊しているホテルの部屋だ。時刻は10時を回ったところ。悪い夢でも見ていたのかと思ったが、昨日の服のままだったし、足の痛みが酷くてベッドを降りることもままならない。あれはやはり現実だったのだ。

生きている。それだけで良かった。とにかく俺は、殺されずに済んだのだ。喜びと安堵で、自然と涙が溢れ出た。

なんとか体を起こし、ソファの方へ移動すると、テーブルの上には札束が三つと帰りの航空券、そして「おめでとうございます。報酬の300万円です」とPCで打たれたメモが置かれていた。「それだけかよ」と不服を口に出して言ったはみたが、俺はなんだか笑ってしまった。

一応あの女に電話をかけたが、既に不通。何も答えちゃくれないということか。まぁ良い。アイツらがなんなのかなんて知りたくもないし、金輪際関わりたくないんだ。

腹が減ったし、早くシャワーも浴びたい。そしてそれが終わったら家に帰ろう。もう一度、人生のやり直しだ。

さぁ、二人の待つ、家に帰ろう。

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