思考と泥団子、自分語りを交えて

自分語りは嫌いですがそれは自分語りが嫌いって言う人に嫌われるのが怖いからです。


どこかで思考をネットにしか落とせないコミュニケーション弱者は何をやってもダメという意見を見ました。

以来Twitterをそれなりに使ってきているぼくは可能な限り綺麗な思考という泥団子を固めて並べているつもりですが、
もう少し見世物にできるように、頑張って泥団子を磨いてみようと思ってnoteに登録してみた次第です。

長い文章を書くのはtumblrなんかに感情をぶつけまくっていた時期もあったし、中学時代アメーバがとてつもなく流行っていたのを思い出しました。

みんなはピグに課金してチャットして〜みたいなことをしてましたが、課金するほどの小遣いもなければ携帯も持っていなかったので、当時いいと思ったMVの感想をつらつら述べるブログを書いておりました。
ネットリテラシーがなく友達同士がケンカしてしょーもな、みたいなことをオブラートに包んで書いたのにバレて学校で友達に怒られたりもしました。

今も変わりません。成長がない。
よく言えば言いたい放題、悪く言えば特定の個人よりも叩いてはいけないもの、たとえば群衆心理とか、慣習とかを叩いて、それを取り巻く人たちになんとなく、それでいて根強い不快感を与えているような気がしています。

いつだって人の機嫌を伺っているし不機嫌そうな人を見たらヒヤッとしてしまうし喧嘩が嫌いだけど、無意識に前述のものを叩いて喧嘩を売ってるしそれに気づいた頃にはもう遅いんですよね。

たとえどれだけ誰かを大事に思っていてもその人の「価値観」「好きなもの」まで大事にできるわけじゃなくて、それを侵したときにわりと絶交されるんじゃないかと不安になります。

割とずっとオタク文化が好きで、好きなものバカにされまくって傷つくとか、好きなものに触れる時間を制限されるみたいな小中時代を送り、じゃあなにが好きならいいんだ?と周りと自分に問い続け今にまで至っています。

好きだったものを指して俺の青春っすわ、みたいな言い方を皆さんしますよね。
ぼくはそのかなり大部分を否定して、否定されたのを恐れて、人にアジャストして、それが好きなんだ〜いいね〜って言われたことで好きなことを固めてきてしまっています。人に許されないと何かを好きでいていいんだと思えない自分が好きなものを許してくれる人しか好きになれない

たとえば音楽において、ある程度保守的な進行だったりメロディの方が好きなのは今は多少自分の気持ちもありますが、どちらかというとその方が好きな人が多かったからだと思います。

先述のでぼくが不安になるのは単純で自分がそういう価値観、好きなものを否定されてきたから

友達がたくさんいる人ってそれは人によって違うし、尊重しなきゃいけないけど自分にはあまり関係ないことにかなり早い段階で気づいてその上で人と仲良くしてますからね。
ぼくももっとなにも共通点がない人とでも簡単に友達になれる子に育ちたかったです。

価値観を剥き出して誰になに言われてもこれが好きだ、で初めからずっと来れたらよかったし、今からでもできるだろうかそんなことが。って思ってます。

そういう子です。よろしく。

これからはまともな文を書けよ。


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