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人類の分水嶺

映画「MINAMATA」を観た。チッソの社長を演じた國村隼の演技が強く印象に残った。1971年の話である。その26年前は終戦の年だ。

2021年の今の26年前でいうと1995年、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた年だ。58歳の私からすると、1995年は地続きのそんな遠くない過去である。

終戦を境に日本の国家および日本人の大きく価値観が変わった。地続きとは言えないが、しかし26年前のことはぬくもりや冷たさのような肌感覚をともなって生々しく記憶している。そしてその時に刷り込まれた思考は身体の深く刻まれている。

そういえば私の祖父はよく軍歌「露営の歌」(昭和12年/1937年)を孫たちに歌ってくれた。

「勝って来るぞと 勇ましく、誓って故郷(くに)を 出たからは 手柄たてずに 死なりょうか」

そんな私の子どもの頃も1970年前後のことだ。この時間的距離を今にたとえると、私が中森明菜を孫(いないですが)とカラオケに行って歌うようなものである。

「MINAMATA」の舞台になった時代は、それくらい戦中・戦前に近い。チッソの社長が水俣病患者とその家族の叫びを聞きながら、責任を認めようとしなかったのは、国家繁栄のためなら犠牲はやむなしとする思考が強く深く体のなかに刻み込まれていたからではないかと、信念のようなものをもって冷徹に行動する悪役を演じた國村を見て、そう思った。

化学メーカーとして高度経済成長の支え、戦後日本の復興の一翼を担ってきたという自負が、国家繁栄のためには犠牲やむなしと、苦しむ人たちの現状に目を向けることをさせないのだ。若者を戦場に送り玉砕や特攻を促し、空襲で大量の民間犠牲者が出ても竹槍だけを持たせた国家の思考がまだ肌感覚として残っていた人たちの、悲しむべき所業である。

国民主権の戦後新憲法が制定され否定されるべき「繁栄のために犠牲はやむなし」という考え方は、実はまだ高度経済成長期を牽引した世代の日本人には強く体に刻まれて残っていたのだ。それが未曾有の被害を出した公害を前に強く否定され、国民の合意は犠牲者救済に向かう。

水俣病の闘いは、人の思考を「繁栄のために犠牲はやむなし」から、「弱者を支え誰も取り残さない」という方向に向かわせた「分水嶺」になったのではないか。

もちろん、今もさまざま差別や優生学的発想が人々の心の奥に巣食っている。しかしそれを払拭しようとする社会的な動きは21世紀になってますます大きくなっている。

誰も取り残さない社会をつくるというのは、壮大なプロジェクトである。多様性を尊重し、弱者を支え、繁栄の犠牲者をなくし、すべての人が創造的に生きてそれぞれの人生を肯定的に受け入れられる社会をつくる。地球上のどの生物も達成できていないことを人類はやろうとしている。

生物は極めて多様な種をこの世に生み出し、豊かな環境をつくりだしてきたが、個体の生命の保持に対しては冷酷だ。生態系は、個体が生存競争したり、生まれた子どもが他の種に食べられることの前提で成り立っている。

ホモサピエンスも種族間等の激しい戦いを繰り返してきたが、科学の発展と20世紀の大虐殺をともなう戦争を経て、人類は個体の生存に関しても犠牲を出さず助け合うという方向に舵を切っている。

無限大に成長すれば最終的には犠牲者も弱者がいなくなるといった考え方は、1972年に出された『成長の限界』で否定される。むしろ成長の限界が皆が認識するようになるから、放っておけば世の中良くなるといった楽観論が薄れ、多様性の尊重や社会的弱者へケアがより社会の重要事項となってきたのだ。誰もが芸術家である(ボイス)とか誰もがデザイナー(パパネック)という考えもこの頃に生まれる。

人類が途轍もなく偉大なプロジェクトを開始した分水嶺が、このあたりにあったのだなということを「MINAMATA」を観て気づかされた。このプロジェクトは、もしかしたら大きな失敗で終わるかもしれない。しかし、成し遂げる価値のあるものであり、リスクはあっても果敢に挑戦すべき意義がある。

それを人類一人ひとりが自覚しなくてはならないのが21世紀という時代だと思う。挑戦の時代と考えれば、先の見えないという将来への不安も薄らいでいくのではないか。私たちは壮大なプロジェクトの端緒にいて、100年いや1000年かけて、どの生物もまだ成し遂げなかった、個体の命の相互尊重しながら個々に創造性を発現する生き方を全うし、しかも、共に地球に生きる生物の多様性をも尊重するという途轍もなく難しいことに挑戦しようとしているのだ。それは危機とか難局ではなく、プロジェクトの始まりなのである。

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