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モラルに生きること──小説『パチンコ』を読んで

私は高校時代親元から離れ広島で過ごしたが、当時の広島は朝鮮人差別や部落差別が当たり前のようにあった。広島では全国最高レベルの平和教育が行われている。でも、被爆者手帳をもっている人が、なぜ4つ指を立てて同じ日本人を差別するのか、うちの娘は朝鮮人とは絶対結婚させんと言うのか。平和教育が浸透した街で、なぜあいつの名前は通名で本名は……なんて話になるのか。本当に意味が分からなかった。平和を言うなら差別やめろよ。でも、周りの話をうんうん頷いて聞いていた。同調は同意になる。そこで一人で生きるには同調のほうが楽だった。

仕事を始めて大阪出身のカメラマンが私が広島から東京に出てきた人間だと知って、朝鮮人差別の話をよくした。そうした差別がない土地の出身者に下手に語ると軽蔑されるからだと思う。社会派の良い仕事をしているカメラマンだったが、なぜこの人は在日コリアンに対してあんな差別的なことを言うのだろうといつも思った。ただ、私はそれに対して拒絶をしたり否定的なことは言わなかった。そこでもやっぱり同調していた。

一昨年、鶴橋に焼肉を食べに行った。その周辺が猪飼野という地名だったことを全く知らずに──。そして『パチンコ』を読んだ。Twitterで誰かが薦めていたのが気になって。なんですごく気になったのかは忘れた。でも、とにかく気になった。

『パチンコ』は、在日コリアンの家族の物語を1910年から1989年まで四世代にわたって描いた小説だ。著者のミン・ジン・リーはソウル生まれのアメリカ人。在日コリアンの年代記は、それが英語で書かれた小説であることを忘れてさせてしまうほど、強いリアリティをもって、現代の日本の今まであまり語りたがられることのない歴史として、私に迫ってきた。

これはモラルに生きる人たちを描いた小説だ。ある一定のモラルを善として、その他を悪とする単純な小説ではない。理不尽な差別に耐えながら祖国愛に生きた人々を描いた小説ではないということだ。

この小説は次の一文から始まる。「歴史が私たちを見捨てようと、関係ない」。小説の冒頭にありがちな意味ありげだが、すっと読み過ごしてしまう一文。しかし、読了した後、この一文を読むと、何がどう関係ないかがよく分かったような気がした。

自分たちには自分たちが守るべきモラルがある。いままでずっと守ってきて、これからも守りつづける。だから、歴史が見捨てようとも関係ないのだ。が、この小説で描かれるモラルは複雑である。どれもこれも何かしらの欠陥を抱えている。その欠陥はわかりやすいものもあれば、微妙な違和感として現れることもある。

朝鮮の儒教的モラルは極端に男性中心で、女性の人生の目的は健康な男の子を産み育てることとされる。キリスト教プロテスタントは、神の真意は人の理解を超えたものであるため、人はひたすら神を信じ祈り従うことが求められる。神の定めに背いた罪は悔い改めなければならない。

明治以降の日本は中央集権国家を作り、帝国の臣民として国家繁栄のためにに従順に働き、戦時にはその命を捧げることをよしとするモラルを作り上げる。天皇という神が頂点に存在する極端な中央集権国家のため、都市と農村の格差は開き、植民地を抑圧し、民族間の差別を助長させることになる。帝国の臣民にとっては、国家の中央で国のために尽くすことが最高のモラルの実現であった。

戦後の日本は、民主主義国家になりながらも、戦前のモラルを残すこといなる。集団に同調することをよしとし、規則に従順で、組織のために献身的に働く。権力と富の集まる中央志向は戦前と変わらない。親たちは優秀な子どもを東京の有名大学に行かせ、大企業に就職させたがる。

任侠の世界にもモラルはある。反社会的組織にも、彼らが守るべき行動規範がある。たぶんそれを道徳だのモラルだの言うのに違和感のある人も大勢いるだろう。この小説に登場する反社会的組織の男は、任侠のモラルに忠実な人物として描かれる。しかし彼は、力でも金でも解決できない思いに突き動かされる。優れた男の子の父親でありたいという朝鮮の父権的なモラルが、この物語を複雑化させていく。

在日コリアンに理解のある日本人として描かれているのは、不倫が原因で離婚させられた女性、酒とセックスに溺れていく女性、ホモセクシャルであることを隠して生きる男性だ。みな一般的なモラルの外にいることで、自分たちのモラルに従順に生きる人たちの生き方がしっかりと受け止められるようになる。

バブル期の日本では、グローバルなマネーの世界の住人たちも登場する。モラルとはある社会のなかでその構成メンバーがその善悪や正邪を決めるための行動規範だが、彼らの行動規範は個人の保身と出世欲から来るもので、モラルといえるものではない。そのモラルの不在を描くことで、欲望のための行動規範と、一人の人間が生を全うするためのモラルとの違いが浮き彫りになる。

これらのモラルが一人の人間のなかや、家族のなかや、社会のなかで、ぶつかり合い、一人ひとりの登場人物を試すことになるのがこの小説だ。物語が動き出すのは、一人の少女が結婚できない相手と性的関係をもち、子どもを産むという、彼女の生きている世界のモラルから外れる行動を起こした時からである。そのたったひとつのモラルからの逸脱が、それぞれがそれぞれの属する世界のモラルに極めて従順な、四世代の家族の人生を激動のものにしていくのだ。

一人の人間が生を全うするためのモラルとは、生の依り代のためのモラルと呼んでもいい。人は生まれた場所・時代・家族的背景などによって、それぞれ違うモラルを抱えて生まれて育つ。そのモラルはいずれも不完全だ。完璧だと教えられるが欠陥をもつ。なぜなら他の社会には他のモラルを持つ人たちがいて、そのモラルは外の世界では通用しないことがある。しかも社会は時代とともに変化するが、モラルは守るべきものなので、一度ある集団に信じられたモラルはなかなか変化をしようとしない。

それゆえ複数のモラルをもつ集団が重なり合うと齟齬が起こる。強い集団がモラルを押し付ける。しかもだ、モラルとは生の依り代として機能するために、たとえそのモラルによって自分自身が社会的に抑圧されていようとも、モラルを守り抜こうという人たちを生む。抑圧されていても、差別されていても、その生を全うするために自分たちの目の前にあるモラルを受け入れ、それに忠実に生きる。

女性たちは、女性の立場を縛り付ける男性中心社会のモラルであっても、それを受け入れて、真面目に働きつづける。それに反抗する生き方の選べない時代であった。抗うすべはない。抗う前に見捨てられる。ならば、不完全なモラルを受け入れ、正しく生きていることの矜持をもって働きつづける。女性たちだけではない、その家族全員が──。それがこの『パチンコ』という小説に描かれた世界だ。

この小説は生の多様性が描かれているが、多様な価値観を受け入れて、違う民族どうしが共生することの大切さを説いたものでない。自分たちが受け入れざるを得なかったモラルを忠実に守り生き抜いていくこと。生の依り代としてのモラルをもって生きること。それは時代によっては迫害され、辛く厳しい人生を送ることになるかもしれないが、それでも生きる依り代としてのモラルをもつことがいかに大切か。不完全でもそれに従って生を全うすることの尊さ──。

私はこの小説を読むまで、多様性への寛容こそこの世界で最も大切なことだと思ってきた。しかし、ちょっと考えを変えたくなってきた。まず自分たちが従うに足ると考えたモラルに忠実に生きること。「歴史が私たちを見捨てようと、関係ない」と言い切れる生き方をすること。それが最初だ。多様性への寛容はその後にやってくる。「関係ない」と強く発して、自分のモラルの内に生を全うする人がいるから多様性が生まれる。関係ないと言えるから関係が生まれる。希望はそこにある。それに気づかせてくれたこの小説は、私にとって生涯忘れられない小説になるだろう。若い頃、いや、最近までモラルとか道徳なんて考えもしなかった人間が書く原稿だから説得力はないかもしれないが、とにかく、自分の残りの人生、不完全なモラルに生きることはどういうことかをずっと考えてみたいと思う。


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