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話をするということーーゾロ目のサイコロ



この時間がずっと続いて欲しいなあと思うことが稀にある。

野球で実力の拮抗したいい試合をしている時、大好きなアーティストのライブで最高にテンションが上がっている時、ハラハラドキドキさせてくれる映画を観ている時、長い時間をかけて行った場所で美しい景色や建造物を眺めている時、など。他にも沢山あるし、人によって違うだろうし、それがどんな時なのかを周りの人に聞いてみたいとも思う。

ぼくが最近「ずっと続いて欲しい」と感じた時間は、「人と話している時間」だ。今日はそれについていくつか考えたことを書きたいです。


ずっと続いて欲しい時間

ぼくが最近、最も強く、切実に、続いて欲しいと願った時間は、「人と話している時間」である。もっと正確に厳密に言うと、「自分の好きな人たちと、話すことを通じて、分かり合えているという感覚が生まれている時」である。そういうわけにはいかない理由がいくつもあるんだけど、本気でこのまま、終電も次の日の予定も外の寒さも何もかも無視して「話をすること」だけにのめり込みたいと思うときがある。
(まあ、そういったいろんな理由で〈終わり〉が適当に設定されているからこそ、その瞬間が大切に思えるのだろうとも思う)


話すことで分かり合える

話をすることの、最も大切で最も価値のある側面は、そうすることを通じて分かり合えるということだと、いまのところぼくは思う。

我々は話す時、過去と未来の話をしていると考える。

過去の話とは、自分自身を構成する経験についての話だ。こんなことがあった。これが楽しかった。これが悲しかった。これが恥ずかしかった。これはやってよかった。これは後悔している。


未来の話とは、つまるところが、どんな人でありたいと思っているのかという話であると思う。こんなことをしたい。こんなことを大切にしていたい。こんな夢がある。

そうやって話をすることで、たとえば、

自分もそういう経験をしたことがあるなと感じ、共感したり、

自分は経験したことないことに挑戦している人に対して尊敬の念を抱いたり、自分もいつか挑戦してみようと新たな目標を得たり、

自分もそんな風になりたいと思うなと感じ、この人とは共に未来に向かいたいなと思ったり、

全く違う未来を見ている人の「未来」がどうなっていくのか、自分も気になるなと思ったり

する。


それぞれが違う人間で、経験した過去も、見ている未来も、選ぶ言葉も、全部違うのに、話をすることで、分かり合えたり、分かりたいと思ったりする。

「違うけれど一緒だ」、「違うけれど一緒にいたい」と思う瞬間が、現在ーー話をするという空間ーーに訪れる。それこそがぼくが先に述べた、「この瞬間」である。



話がしたい人

話がしたい人とは、「違うけれど一緒だ」「違うけれど一緒にいたい」と思わせてくれる、または思わせてくれそうな人である。そんな人たちがいるということは限りなく幸せなことである。

ぼくは、話がしたい人を何よりも大切にしたい。

ぼくは、

話をすることで理解し合う
=お互いに相手が変化するきっかけを与え合う


ことだと思っている。

人と話をしていると、「そんな考え方もあるのか。」と思う時がよくある。否が応でもぼくはその考え方に少なからず影響を受けることになる。それは、「その考え方を自分にも取り入れよう」というものから、「そんな考えをする人もいるという事実を知った上で行動しよう」というものまである。どちらの影響の受け方をしたとしても、その人と話をする前の自分には戻れない。つまり、変化してしまったということだ。

また、「その考えには共感できるな」と思う場合にも人は変化している。自分の考え方の自信の厚みが増すので、余計にその考え方へのこだわりを強くするという変化がその人にもたらされるのだ。
(つまり、ぼくの「話がしたい人」は、「自分と同じ考えを持っていて共感しまくれる人」と同義ではない。同じ考えの人同士で集まってばかりいることの危うさも感じている。でも、そういうのって居心地がとても良いんだけど。)


自分が常に変わっていくということはコントロールできないことだ。変わらない人などいない。

だけど、どんな風に変わっていきたいかはコントロールできる。どんな影響を受けたいかは、自分で意識的にも無意識的にもコントロールできる(している)。


その意味で、自分の変化のきっかけを与えられることを理解したうえで、それでもなお、その人と話がしたいと思える相手は、「その人と一緒に変わっていきたいと思える相手」であると言える。

そんな風に思える人たちのことは、何があっても大切にしなきゃならんなあと思います。


話がしたいよ

以下に引用したのはBUMP OF CHICKENの「話がしたいよ」という歌の一節です。

この瞬間にどんな顔をしていただろう
一体どんな言葉をいくつ見つけただろう
ああ君がここにいたら
君がここにいたら
話がしたいよ

話すことってすごいことだなと思って、今まで書いてきたようなことをごちゃごちゃ考えて、その後でこの歌を改めて聴いてみたら、前よりちょっとだけ理解できたような気がしました。その感覚が嬉しかったので、その一節を紹介しました。



ひと通り書きたいことを書きましたが、よく分かりにくい文章になってしまっていないかすごく不安です。でもそれをどうこうする体力は残ってないのでここで終わりにします。



そういえば


ぼくが書いたことを基に考えると、これを読んでくれている人は、ぼくの「話」から影響を受けて、変わってしまう可能性が0ではないわけなのに(ぼくごときの文章力では限りなく0に近いと思いますが)、わざわざ時間を割いてまで、ぼくの「話」に耳を傾けてくれているということですね。

そんな人たちとこそ、「違うけれど一緒」「違うけれど一緒にいたい」という感覚をわかり合えそうな気がするのはぼくの思い上がりかもしれません。

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